なものを排した場合にも、デカルトに見られる如く、いわゆる自然的光によって明晰で判明な知覚は与えられ、この直観的明証が真理の基準とされたのである。感性知覚の如きものにも物を写すという意味がある以上、それは単に盲目的なものとは考えられないであろう。かくの如く客体がそのものとして顕わになるということは、さきに述べたところに依ると、主体の超越によって可能になる。主体の超越がなければ認識が模写であるということも考えられない、模写説も根源的に主体的条件のもとに立っている。
しかし前から論じてきた如く、認識が模写であるということには種々の困難がある。その困難は、我々の観念は物の模写でなくて記号であると考えることによって除かれ得るように思われる。特に知識はただその究極の意味において存在の模写であると考えてゆけば、それは存在の摸写でなくて記号であると考えて好いであろう。模写説においても、ロックの場合の如く、感覚はしばしば物の代表と見られている。代表ということを一歩進めると記号である。記号は模写の意味を離れた代表である。かようにして知識は模写であるという説に対して、知識は記号であるという記号説がある。模写説が常識的世界観に符合するところに強味をもっているのに対して、記号説は科学的世界像に符合するところに長所をもっている。それに相応して模写説と記号説との間には、知識の見方についてのみでなく、存在の見方についても相違がある。記号において表わされるのは物であるよりも物の関係である。そして近代科学の特色は、物を物としてそれだけに研究するのでなく、物と物との関係を研究すること、或いはむしろ物を関係において研究することにある。近代科学は物概念において思惟するのでなく、関係概念において思惟するのである。古代的思惟においては、物といわれる実体があって、関係はそれに附帯するものと考えられた。しかるに近代科学においては、物は関係に分解され、関係から物が構成される、関係は法則として現わされ、物は諸関係の網の結び目の如く考えられる。物の知識は模写でなければならぬとしても、関係の知識、法則の知識は模写でなく、むしろ記号であるといわれるであろう。概念、数、公式等はそのような記号である。
しかしながら知識は記号であるとしても、記号は何物かの記号でなければならず、記号されたものに対する関係を離れて記号は記号の意味をもつことができず、ましてその記号が知識の意味をもつことは不可能であろう。物理の法則が数式をもって表わされるにしても、物理学は数学に解消されるのでなく、その数式の物理的意味が問題である。記号は記号としていかに任意のものであり得るにしても、その内実の意味においては客観に制約されているのでなければ知識であり得ない。その客観からの制約を広く知識の模写的意味と称するならば、知識はつねに何等か模写的意味を含まねばならぬ。
科学は現象を説明するのでなく記述するのみであるという説は、知識が記号であるという説に近く立っている。知識が記号であるとすれば、それは現象を説明するのでなく記述するに過ぎないということになるであろう。キルヒホフの言葉に依ると、自然科学の任務は、自然現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することである。かような場合、認識の目的は最も経済的に思惟することにある。科学は最小限の思惟消費をもってできるだけ完全に事実を記述することを目的とする、とマッハはいっている。マッハやアヴェナリウスに依ると、概念、公式、方法、原理等は、できるだけ勢力を節約して経済的に環境に適応することを可能にするものであり、その価値は思惟経済上の価値によって決定される。思惟経済説は、有用なものが真理であり、真理の標準は有用性にあるとする実用主義(プラグマティズム)の一種である。科学が概念構成によって、また法則の発見によって、多様な現象を包括し、要約し、人間の勢力を節約させるという思惟経済上の価値をもっているということは事実である。けれども単に有用性の見地から考える場合、知識は相対的なものになってしまわねばならぬであろう。知識は有用であるから真理であるのでなく、真理であるから有用であるのである。「人間の思惟は客観的真理を正しく模写するとき、経済的である」。「認識は、客観的な、人間から独立な真埋を反映するときにのみ、生物学的に有用であり、人間の行動にとって、生命の保存にとって、種族の保存にとって有用であり得るのである」、と唯物論者も模写説の立場からいっている。
尤《もっと》も、記号説も或る正しいものを含んでいる。知識は単なる模写でなく、何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっている。知識は一般に言葉において表現されるが、そのことが知識にとって偶然的な、外面的なことでないとすれば、知識は本質的に
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