官とが同一の人間であるということは法廷の観念に適しないからである。しかしいかにして一人の人間のうちにかように二重の人格を考え得るであろうか。カントは現象と本体とを区別する彼の認識論に相応して、そのような裁判官を経験的人間に対する本体的人間と考えた。良心は単に内在的なものではない、それは人間の主体的超越性を現わしている。しかし単に内に超越的なものを考えることは神秘主義に終るか、我々を偶像崇拝者にすることである。真に内に超越することは外に真に超越的なものを認めることでなければならぬ。良心的であるということは単に内なる呼び掛けに応えることでなく、外なる呼び掛けに応えることである。外なる呼び掛けが内なる呼び掛けであり、内なる呼び掛けが外なる呼び掛けであるところに、良心がある。物が表現的に我に臨むということは、主観的な我を否定すべく我に迫ることである。知るということも、もと物的表現の世界から喚《よ》び起されることである。主観的な我を否定して物をそのものとして認めるところに、対象の要求に従うところに、認識がある。知るということは認めるということである。知ることが認めることであるのは物が元来表現的なものであるためである。対象がリップスのいわゆる「対象の要求」をもって我に臨むというのは、それが表現的なものであるからである。そして我々が良心的であることによって物は我々に対して真に表現的に顕われるのである。
 もとより認識にとっては単に良心的であるということだけでは足りないであろう。知識を得るにはその能力がなければならず、従って有能性が問題である。有能性は技術的意味のものである。知識を得るには方法的でなければならず、方法なしには学問はない。学問とは方法的に得られる知識である。方法は一方主観的なものである。対象は方法によって規定される。しかし方法はまた対象から規定される。方法は対象に適した方法でなければならないからである。即ち方法は主観的・客観的なものであり、かようなものとして技術的である。有能性とは方法における練達、優秀な技術を意味し、これを欠いては知識の倫理は抽象的なものに止まるであろう。しかし方法或いは技術は悪用され、真理に達するために用いらるべきものが却って真理を歪曲するために用いられることができる。そこに欠けているのは良心である。認識もあらゆる表現作用の如く形成的であり、技術的
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