的認識(教養の知識)、実証的・科学的認識(仕事の知識)は、知識の発達の三つの歴史的段階でなく、人間精神そのものの本質と共に与えられた持続的な三つの精神の態度であり、認識の形態であって、そのいかなる一つも、他に代置されることも他を代表することもできないと主張した。それらは認識する精神の三つの違った作用、違った目的、違った人間の型に属するのである。
 まことに近代科学は知識を世俗化した。そしてそれに伴って哲学も世俗化された。そしてそれと共に知識の倫理はもはや問題でなくなったように見える。しかし知識の世俗化によって知識の倫理がなくなったのでない。その世俗化そのものが実は近代の初めにおける知識人の情熱であり、彼等の知識の倫理であったのである。しかるにすべてが世俗化してしまった後には、世俗化がひとつの倫理であったことが忘れられ、それと共に知識の倫理そのものも問題にされなくなったのである。科学はどこまでも客観的に認識してゆく。そのためには自己の主観的な観念や意図に束縛されないことが必要であり、そこに倫理的態度がなければならぬ。すべての研究者は良心的であることを要求されており、そこに知識の倫理がある。知識を求める者には真理に対する熾烈な愛がなければならぬ。この愛は人生の幸福についての高い見方を必要とする。真理は個人にとって必ずしも有利なものでなく、人間を不幸にする場合さえ多いからである。そこでまた人間はしばしば真埋を蔽い隠そうとする。それ故に真理を知ろうとする者は真実でなければならぬ。そして哲学的認識における如く、単に客観的に捉えることのできぬもの、主体の自己開示に俟たねばならぬもの、かようなものの認識は特に倫理的でなければならぬであろう。
 認識のあらゆる場合において我々はつねに良心的であることを要求されている。良心は人間の客観に対する関係でなく、主体に対する関係である。倫理は主体の主体に対する関係のうちにある。良心的でなければならぬということは知識の倫理にほかならない。カントは良心を人間における内的法廷の意識と称した。しかるに良心と呼ばれる根源的な、知的で道徳的な素質は、その仕事が人間の自己自身に対する仕事であるにも拘らず、彼はそれを或る他の人間の命令で行うものと見るように彼の理性によって強要されている。なぜならその仕事は法廷のそれであるが、良心によって訴えられている者と裁判
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