である。技術は物をしてその本質を発揮させるものである。植物は見られることによっていわば救済されるとアウグスティヌスのいった如く、物は認識という形成作用によってその真の存在と価値に達するのである。しかし更に、真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ。表現的なものから喚《よ》び起された認識は、それが我々の実践的な形成作用を通じて存在のうちに実現されることによって真に表現的になるのである。真理に従って行動するということが我々の倫理である。真理は知識の問題であると同時にかような倫理の問題であるところに、知識と倫理との究極の結合があるのである。
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第二章 行為の問題
一 道徳的行為
行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。行為という場合、普通にその道徳性が問題にされ、行為はおよそ道徳的行為の意味に理解され、その際、道徳は知識とか芸術とかと異るものと考えられている。しかし既に述べた如く、知識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ、知識の主体も操作的なものとして行為的と見られることができ、また知識についても知識の倫理がある。更に芸術の如きも、単に享受の立場からでなく、制作の立場から捉えられねばならぬ、芸術の主体も制作的なものとして行為的と見られることができ、芸術についても制作の倫理が要求されるであろう。かように物を行為の立場において見るということは、物を歴史的世界において見ることである。歴史的世界は行為の世界である。従ってドロイセンのいう如く、歴史的世界は道徳的世界である。もとより知識、芸術、道徳の間には区別がある。知識の根本問題は真理であり、道徳のそれは善であり、芸術のそれは美であるといわれている。しかしそれらを差別においてと同時に統一において把握することが重要である。
道徳的といわれる行為に固有なものは何であろうか。これが明かになって初めて、いかなる意味において他の種類の行為も道徳的と考えられるかが明かになるのである、認識は主体の客体に対する関係である、それは主体による客体の把捉である。科学においては人間も物と見られ、自然として取扱われる。認識の問題は我と物或いは自然との関係であるといわれる。しかるに道徳は主体の主体に対する行為的聯関
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