れの時代はそれぞれ絶対に独立なものとして非連続的であり、非連続的であると同時に連続的である。世界は多であって一である。それは歴史的にどこまでも動いてゆくと同時にどこまでも止まっている、動即静、静即動といわれるのである。一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互に他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即多、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。人間もまた世界の外にあるものでなく、世界の一物として世界においてある。認識というものも歴史的世界における歴史的物としての人間の表現作用の一つにほかならない。我々の行為は自己から起ると共に世界から起るのである。我々が自然を見る眼は自然が我々を見る眼である。それは表現的世界から喚《よ》び起される表現作用に属している。かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、あたかも機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。
ところで知識と行為との関係を強調するものに実用主義(プラグマティズム)がある。実用主義は経験論の発展であるが、経験を行為的なものと見るところに特色がある。かくて実用主義は真理を動的過程的に把握するのである。それは発生的な見方に立っている。主知主義者が真理を本質的に固定的なもの静的なものと考えるに反して、実用主義者は先験的な原理、閉鎖された体系、いわゆる絶対者を認めない。「真理は真と成る、もろもろの出来事によって真となされる。それの真理性は常にひとつの出来事であり、ひとつの過程である、即ちそれが自己を実証してゆく過程、それの実証・過程である」、とジェームズはいっている。我々の観念はそれが喚び起す行為や他の観念を通じて我々を経験の他の部分へ導いてゆく。この結合と移動が一点から一点へと進行し、どこまでも調和と一致が存する場合、
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