その観念は証明を得ることになる。かくの如く実証された指導が真埋・過程の原型である。我々は我々が言葉においてもっている知識の実際的効果を試さなければならぬ。真理というのはかような実際的効果、紙幣に対する正金の値である。或る観念もしくは理論の真理性はその論理的帰結によってでなく、その実践的帰結によって判定される。知識は解決であるよりもむしろ一層多くの仕事に対するプログラムであり、特に現存の存在が変化され得るような道への指示である。そこで理論は道具となる。実用主義は強張った理論を嫋《たおや》かにして仕事に着かせる方法である。或る思想の意味を展開しようと思えば、我々はただそれがいかなる行為を作り出すに適しているかを決定しさえすればよい、その行為が我々にとってその思想のもっている唯一の意味である。実用主義は方法として、特殊な結論でなく、却って一定の態度である、第一の事物、原理、範疇、必然性から眼を背けて、最後の事物、結実、帰結、事実へ眼を向けるところの態度である。かくて実用主義の足場は経験である。それは経験が一の全体として自己包括的で他の何物にも凭《よ》り懸らないと考える。知るものも知られるものも共に経験の部分にほかならぬ。我々の経験の部分である観念は、我々を助けて我々の経験の他の部分と満足な関係に入らせる限り、真となる。我々が真とする思想は、まさに我々の経験の一契機である故に、経験の中で働くことができ、我々はその思想の指導によって経験の中に入り、このものと有利な結合をなし得るのである。そこで実用主義は現代の多くの「生の哲学」と共通の原理に立っている。生の哲学の根本原理は生を生そのものから理解することであると、ディルタイはいったが、あらゆる超越的なものを斥けて純粋に内在的な立場に止まろうとするのが生の哲学の一般的傾向である。実用主義にとっては認識もまた我々の生の機能の一つであり、その真理性はそれが我々の生にとって有用であるということにある。「真理は、普通に想像されるように、善から区別された、そしてそれと対等な範疇でなく、善の一種である」、とジェームズはいっている。しかるにかように超越的なものを排して生の内在的な立場に立つ実用主義は、真理を人生に対する有用性と考えることによって、知識そのものに関しては却ってその内在的基準を認めないことになるであろう。知識にはその論理性の如き内在
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