対的意味がないことになるであろう。客観的に見てゆくと相対的であるのほかないように見える知識の絶対性が示されるためには、主体的な見方が必要である。事実としても、知識の絶対性が問題になるのは主体的な立場においてであり、主体的な知識に関してである。客観的な知識に関しては、相対的であるのはむしろ当然のこととされ、それを率直に認めることが学者にふさわしい態度であるとされている。自己の説を絶対的と主張する科学者は疑いの眼をもって見られるであろう。しかるに哲学の如き、客観的に見ると最も多く異る思想が存在するものについて却って知識の絶対性が問題にされるのである。そのことは知識の絶対性が主体的に捉えられねばならぬことを示している。哲学は行為の立場における主体的知識である。主体的に見てゆくということは、歴史の外部から歴史を単に主観的に見るということではない、却って歴史はその本質において主体的に見られねばならないものである。科学の如き客観的な知識の探求も歴史的人間の行為としてはかように見られねばならず、それによってその探求に絶対的意味が認められる。客観的に見てゆくと相対的であることを免れないにしても、行為の立場に立てば、その時その状況において絶対的意味をもっているのである。行為の立場においては、永遠の将来が、その将来において初めて現われる絶対的真理が問題であるのでなく、まさに現在が、この現在の問題を解決し得る知識が絶対的な問題である。行為が必要とするのは抽象的に絶対的な真理でなく、その行為的瞬間において絶対的な真理である。真に絶対的なものとは抽象的に永遠なもの、無時間的なものではない。しかし瞬間といっても、普通に考えられる時間の点の如きものでなく、むしろ永遠の原子であり、時間と永遠との統一である。既に述べたように、行為は現在から起るが、この現在は過去から現在、現在から未来と表象される時間の現在でなく、却って過去現在未来がそこに同時存在的にあると考えられる現在であり、永遠の今である。一切のものはこの現在から生じ、この現在においてある。真に歴史的なものとは単に歴史的なものでなく、歴史的であると同時に超歴史的なものである。「おのおのの時代は直接に神に属する、そしてその価値は決してそれから生れ出るものに基くのでなく、その存在そのもののうちに、それ自身の自己のうちにある」、とランケはいった。それぞ
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