が可能的にあったものと同一であるから。アリストテレスにとって運動は可能性より現実性への過程を意味した。弁証法は単にかくの如き内在的な連続的な発展であることができない。そこには自己に内在的なものが同時に超越的なものであるということ、また超越的なものが同時に自己に内在的なものであるということがなければならぬ。自己から起る行為が自己に超越的な自己の存在の根拠である世界から起るものであり、行為は同時に出来事であるのでなければならぬ。人間の作るものが同時に人間を超えた意味をもっているのでなければならぬ。自己の本質として自己のうちにあると考えられる理性或いはロゴスが単に自己のうちにあるものでなく、却って物のうちに、客観的表現的なもののうちにあるものであり、このものに喚《よ》び起されて行為することが真に自己の内から行為することであるというのでなければならぬ。かようにして内在が超越であり超越が内在であるというところに弁証法はある。行為が同時に出来事であるということが歴史的ということであって、弁証法はかような歴史の論理である。

      五 知識の相対性と絶対性

 知識は普遍性と必然性即ち普遍妥当性をもつものでなければならぬ。さもないと真理とはいわれない。真理は普遍妥当的なものとして絶対的なものである。しかるに事実を見ると、かくの如き絶対的真理はむしろ存在しないのであって、甲が真理として主張することも乙は真理として承認せず、甲自身においても昨日真理と考えたことを必ずしも今日真理と考えるわけではない。かようにして事実としては普遍妥当的な絶対的真理の存在は疑わしく、むしろ否定されねばならぬであろう。そこでカントは事実の問題と権利の問題を区別する批判的方法によって、知識の性質を論理的に明かにしようとしたのである。この論理主義は、知識を心理的事実として見てゆく心理主義に反対する。心理主義によっては知識の本質、その普遍妥当性、その真理性を明かにすることができぬ。尤《もっと》も、論理主義は知識の普遍妥当性をただ形式的に明かにするのみであって、抽象的であるといわれるであろう。しかしながら知識の普遍妥当性に対する要求は我々の先験的な自覚に属するのであり、この自覚なしにはいかなる真理探求もあり得ないであろう。
 それにしても、事実としては、絶対的真理は存在しないようである。人により、処により、時
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