代によって、真理とされるものは違っている。真理は絶対的なものでなく、相対的なものに過ぎぬように思われる。もしそうであるとすれば、一般に真理はなく、知識は可能でないといわねばならぬ。真理はその本質上単に相対的なものでなくて絶対的なものであり、知識は真理として単に主観的なものでなくて客観的なものである。かようにして相対主義は懐疑論になる。懐疑論とは普遍妥当的な知識は存在せず、従って真埋は存在しないという主張である。論理主義者は懐疑論を反駁して次の如く論じている。懐疑論者は真理はないと主張するが、彼はかように主張することによって彼のこの主張だけは真理であると考えているのであり、従って少くとも一つは真理があることを認めているのであって、さもないと彼が懐疑論を唱えることも無意味にならなければならない、それ故に懐疑論は自己矛盾である。この批評は形式的には正しいにしても、抽象的であることを免れないといえる。論理主義者も歴史的事実としては絶対的真理の存在しないことを認めねばならぬであろう。他方懐疑論者も彼がみずから考えるように懐疑的であるかどうか、疑問である。彼等は実際においてはむしろ常識に従って生活しているのが普通である。懐疑論が常識主義になっているのは歴史においてつねに見られることである。事実、すべては疑わしいという立場においては我々は生きてゆけないのであって、生きている以上、何か確実なものがあること、拠り所となり得るものがあることを認めているのである。懐疑論は真理はないと主張することにおいて自己矛盾であると批評されるが、懐疑論は何等主張するものでなく、却ってピュロンがいった如く、判断中止が懐疑論者の態度であるといわれるであろう。しかしながら判断中止によっては我々は行為することができぬ。行為するとは決断すること、意志決定をすることである。それ故に懐疑論はたかだか観想の立場において可能であるのみであって、行為の立場においては全く不可能であるといわねばならぬ。尤《もっと》も懐疑論という立場を離れて、懐疑そのものを考えると、懐疑には重要な意味がある。すべての知的探求は懐疑に始まるのである。これまで真理と信じられていたことを疑うところから新しい探求は始まり、知識の進歩が可能になる。我々が行為的であることから知識的であることに移るのは懐疑においてである。懐疑によって独断を破り、正しい認識
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