いということによって、運動するのである。「矛盾は一切の運動及び生命性の根源である。物は自己自身のうちに矛盾を有する限りにおいてのみ、運動し、衝動と活動を有する」、とヘーゲルはいっている。矛盾を容れぬ形式論理に対して、矛盾こそ物の生命的なものであるというのが弁証法の根本思想である。矛盾し対立するものは相互に否定することによって相互に媒介する。弁証法は否定による媒介の論理である。しかしながら弁証法を単に媒介の論理と考えるとき、それは反省の論理に止まって行為の論理とはならないであろう。行為は一方どこまでも媒介的であると共に他方どこまでも直接的なもの、直観的なものである。直接的なものが媒介的であり、媒介的なものが直接的であるというところに、行為があり、真の弁証法がある。弁証法は反省の論理でなく、現実の世界そのものの論理である。尤《もっと》も、我々の行為にとっても反省が必要である限り、ヘーゲルが抽象的な「悟性の論理」として軽蔑した形式論理も重要な意味をもっている。また我々の行為は客観的なものに関係付けられている以上、抽象的といわれる一般的法則の認識もそれにとって大切である。抽象的なものを軽蔑することは却って非弁証法的であるといわねばならぬ。弁証法は対立するものが一つのものであることを主張する。しかしながらこの同一性は形式論理の自同律にいう同一性とは異り、矛盾するものが止揚されて一つに綜合されるところに成立する。止揚という弁証法の言葉は、先ず無くされること、次に高められること、そして保たれることを意味している。矛盾するものは否定され、同時により高いもののうちに綜合されて保存されるのである。そこには否定の否定がある。しかも対立するものが一つであるということは、媒介的なものが直接的であり直接的なものが媒介的であるというところに成立するのである。また弁証法は矛盾の綜合における発展の論理であるが、この場合発展の意味は正しく理解されねばならぬ。普通に発展というと、自己のうちに含まれていたものが顕わになってくること、自己の内在的な本質が顕現的になってくることと理解されている。しかるにこの含蓄より顕現へという過程は、可能性より現実性への過程としてまさにアリストテレスがその論理によって捉えようとしたものであって、そこには何等矛盾というものはなく、従って弁証法はない。自己の実現するものは元来自己
前へ
次へ
全112ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング