い。知識が経験からのみ来るものとすれば、それは単に蓋然的なものになってしまう。我々は太陽が東から出て西に没することを経験的に知っている。それは従来の経験においてはいつもそうであったにしても、明日も必ずその通りであるとは経験の立場からはいい得ないのであって、ただ我々は明日もそうであろうと習慣的に信じているだけである。このようにヒュームは物の因果関係の知識も習慣に基く信仰に過ぎぬと論じた。我々が経験するのは甲の後に乙が起ったということである。それだけでは甲が乙の原因であって、甲によって必ず乙が起るということはできない。しかるにその場合甲によって乙が起ると我々が考えるのは、甲の後に乙が起ることを我々が繰返して経験するところから、習慣によって甲の後には必ず乙を表象し期待するように内的に強要されているためである。一つの表象が他の表象を喚《よ》び起すこの心理的必然性が実在的必然性として把捉されたものが因果の観念である。もしそうであるとすれば、物の因果関係についての我々の知識は主観的なもの、蓋然的なものになってしまう。かようにして普遍的な必然的な知識はないということになり、経験論はヒュームにおいて懐疑論に陥ったのである。
 カントにとってもその認識論の根本問題は経験であった。彼はヒュームによって独断の眠から醒まされたと告白している。彼もすべての認識が経験と共に始まること、またそれが経験の制約のもとに立たねばならぬことを認めた。しかるに、「我々のすべての認識は経験と共に[#「共に」に傍点]始まるにしても、だからといってそれはすべて経験から[#「から」に傍点]生ずるのではない」、とカントはいっている。もしすべての知識が経験から来るものとすれば、普遍的な必然的な知識の存しないことは、経験論が教える通りである。知識の普遍妥当性の根拠には何か経験から生ずるといわれないものがあるのでなければならぬ。このものは、経験から生ずるものがア・ポステリオリ(後天的、経験的)といわれるに対して、ア・プリオリ(先天的、先験的)と称せられる。カントに依ると、知識の内容は経験的なものであるが、その形式は先験的なものである。知識の形式は主観に具わるものである。しかし合理論において考えられる如く、思惟はそれ自身によって知識を生ずるのでなく、経験に関係付けられなければならない。たとい思惟は経験の範囲を越えてそれ自身
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