葉において命題として表わされる。かような命題の真理については、その言葉がそこに思念された観念相互の間にあるのと同じ肯定的もしくは否定的関係にあるとき、真であるということができる。しかしそれは名目的真理に過ぎず、その判断の実質的な真理性は何処にあるかと問われるであろう。この問に対しては、我々の観念と我々の心の外に存在する物とが、言葉と観念との間にあるのと同じ関係におかれ、観念の結合は、観念によって現わされた物の結合と一致しているとき、真であると答えられるであろう。ロックは観念は「物の記号或いは代表」と考えた。このいわゆる代表説は心の外に物の存在を前提する模写説の一変形である。しかしながら、もしも観念が心に直接に現われる唯一の対象であるとしたならば、いかにして我々は我々の観念とその原物とを比較し、かくして我々の観念と物の実際との一致を確かめ得るであろうか。「心は知覚以外の何物をも自己に現前するものとして有せず、そして恐らくはそれと物との結び付きの何等の経験にも達し得ない」、とヒュームはいっている。実際、もしも物があるということが経験されることであり、経験されるということが意識に与えられることであるとすれば、存在は観念のほかの何物でもないということになるであろう。バークリの有名な言葉に依ると、「存在するとは知覚されることである」。桜の実はその色、香、味、等の表象複合に過ぎず、その存在は知覚されるということと同じである。「実に物と感覚とは同一のものである」、とさえバークリはいっている。しかるに知覚するのは私の心であるとすれば、この観念論即ち存在を観念と見る立場は、ひとり我のみが存在し、他のものはすべて我の観念に過ぎぬという独我論に終らねばならぬ。バークリがなお自我という心的実体を認めたのに対して、ヒュームは、一歩を進め、バークリが桜の実についていったことは自我についてもいわれ得ると考えた。我々の内的知覚も自我の実体について教えるものでなく、ただその活動、状態、属性を示すのみであり、これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も残らない、自我もまた「観念の束」に過ぎぬ。しかるにかようにして一切が観念であるか観念の複合であるとすれば、この純粋な内在論にとって知識の客観性の基準はないということになるであろう。
 経験論は知識の普遍性と必然性を基礎付けることができな
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