の認識を自由に拡張し得るにしても、かような知識は真の知識でなく、知識は経験の制約のもとに、従って感覚の制約のもとに立たねばならぬ。カントが先験的というのは経験を超絶したものでなく、却って経験を基礎付けるもの、言い換えると、普遍的な必然的な経験を可能にするものである。すでに述べた如く、カントに依ると、我々は対象を構成することによって対象を認識する。経験の対象は、直観に与えられた多様なものを主観がその先験的形式によって統一するところに生じたものである。因果の範疇の如きもかような先験的形式に属する故に、我々の経験における因果の認識は普遍性と必然性をもつことができる。我々は経験を因果の範疇で構成することによって経験における因果関係を認識するのである。「我々の経験のうちにはその先験的起原をもたねばならぬ認識が混合している」、とカントはいっている。経験は単に経験的なものでなく、却って経験的なものと先験的なものとの綜合である。かようにしてカントの立場は経験論と合理論とを綜合するものと見られるであろう。彼の立場は批判論と呼ばれているが、批判というのは、事実の問題と権利の問題を区別し、いかにして普遍妥当的な知識は可能であるかを明かにすることである。カントは知識の普遍妥当性の根拠を主として知識の形式の先験性に求めたのであって、その批判論は先験主義であり、従ってまた合理的色彩が強いといわれるであろう。知識の先験的形式はそれによって直観に与えられた内容を統一する主観の形式である故に、彼の批判論はまた主観主義である。カントの主観はもとより個人的な経験的自我でなく、超個人的な先験的自我であり、その根本的な作用は先験的統覚と呼ばれている。あらゆる表象は我の意識に属する以上、「我考う」ということに伴われ得るのでなければならぬ。我考うということがあらゆる我の表象に伴うというのは我が自覚的であるということである。その自覚は我は我であるという分析的統一でなく、与えられた多様な内容に即して成立する綜合的統一である。直観の多様はこの先験的統覚のもとに範疇によって統一され、我にとって対象として現われる。「意識の綜合的統一は、従って、あらゆる認識の客観的制約である。しかもそれは単に客観を認識するために、私自身が必要とするばかりでなく、あらゆる直観が私に対して客観となるために、そのもとに立たねばならぬ制約なのであ
前へ 次へ
全112ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング