傳統がないから哲學が自然的な教養として一般人の間に行き亙つてゐない。傳統がないから哲學が他の諸文化のうちに浸潤してゐない。そのために哲學がむつかしいと思はれる度が甚しいのである。哲學が藝術、科學等の諸文化の中に根を張るやうになることが哲學のわかり易くなるために必要な條件である。さうなるための努力があまりなされてゐないのは遺憾である。哲學が哲學者仲間だけのあひだのものとなり、お互のあひだだけしか通じない言葉を語つてゐるやうに見えるのは遺憾である。そのやうな傾向が哲學を無意味にむつかしくしてゐるといふことがありはしないか。
またよく云はれるのは、今の日本の哲學のむつかしいのはドイツ哲學の影響によるといふことである。これは一理あることであらう。フランスやイギリスの哲學はドイツのものに比してわかり易いやうに見える。しかしこれは本質問題とは無關係である。わかつたやうに思はれても、ほんたうにわかつてゐるのでないことは、例へば、さういふフランス流の哲學を自分でやつてみようとしても、なかなかできないといふことでも知られよう。それには性格と才能とが要る。然るにそのやうな性格や才能は、實際はドイツ流の哲
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