學においても必要なのである。ドイツの哲學は概念的で、秩序整然たるものがあり、教科書として便利であり、それをつなぎ合はすれば何か論文らしいものができる。いはゆる哲學論文を作るにはドイツのものが都合がよからう。しかしさういふ風にして論文が作製されることが哲學をむつかしく、いな、わからないものにしてゐるのである。論文作製の便法をすてて、ほんたうに哲學することの困難を知るために、もつとフランスのものが讀まれることが望ましいかも知れぬ。フランス風のもので哲學的と思はれるやうなものを書くことは容易でないのである。さういふところから自然ドイツ流の哲學におもむくといふことがなければ仕合せである。ドイツのものなら何でも大事に讀むといふ傾向があまり甚しくはないか、そして實は亞流のものをあまりに大切に讀むといふことの影響で哲學がむつかしくなつてゐるのではないかと感じられるのである。讀書は哲學にとつても大切だ。しかし何でも構はず手あたり次第に讀んでゐると、善いものと惡いものとの區別ができなくなつてしまふ。その影響が恐れられねばならぬ。
今の日本の哲學がむつかしいのは、それがあまりにこせこせしてゐて、餘裕がな
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