てゆくことのできる立場といふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの)であり、他の人にとつては他の種類の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從つて運命的とも性格的ともいふべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。今の日本のやうに何か最新流行の哲學といふやうなものがあり、それが次から次へめまぐるしく變つて行き、そして或るものが流行だといへば、誰も彼もが、從つてそれが自分の性に合つてゐない人々までが、それを追つかけるといふ傾向があつては、哲學がむつかしいと非難されても仕方がないであらう、なぜならそのやうな状態では思索の根源性も、純粹性も、それ故に徹底性もあり得ないからだ。流行を追ふといふことは哲學の場合にも浪費を意味する。それは個人としても、哲學界全體としても、たしかに浪費である。そのやうな状態が特に日本において著しいといふのは、日本にはまだしつかりした哲學の傳統がないためであらう。そしてこの傳統がないといふことが哲學のむつかしいひとつの原因であり、いな、その最大の原因であると云へる。
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