期待し得るわけのものでなく、希望されることは思索の根源性といふことである。他の哲學を模倣したり飜譯したりするのでなく、他の哲學に從つて或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。思索の根源性によつて何よりも哲學上の問題が生きて來るのであり、問題が生きてゐるといふことがまたひとにとつてわかり易くなる一つの要點である。そのうちに問題が生きてゐるものは何といつてもわかり易い。さういふ問題は現實性を有する問題である。本からでなく、物から考へることが大事である。自分にとつて現實的に問題になつてゐないことを、それが流行であるからといつて、或ひはそれについてひとが論じてゐるからといふので、問題にしたのでは、わからないものになるのは當然であらう。
 現在の日本の哲學のむつかしいのは、あまりに折衷的乃至混合的であるためだとも云はれ得る。そこでは思索の根源性が失はれるからである。思索の根源性からいへば、自分にとつてほんとに根源的に理解し、思惟し、研究し
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