や飜譯のできないものを模倣し飜譯しようとするから、むつかしくなり、わからなくなるのである。理論は模倣され飜譯されてもわかるものである(それがほんたうの模倣、ほんたうの飜譯でなければならぬことは云ふまでもない)。さうでないのは思想である。しかも理論も哲學においては思想と結合してをり、はなればなれのものでない。かくして哲學において要求されるのは「思索の根源性」であると云はれ得るであらう。それだからして大哲學者の著作は多くの亞流の書いたものよりも本質においてわかり易い。思索の根源性があるからである。古典はそこいらの書物よりもわかり易い。およそ古典となるものには「天才的な單純さ」といつたものがある。解説書よりも原典が結局わかり易いといふことは多くの場合に經驗されることである。そこで哲學において大切なのは思索の根源性でなければならぬ。自分でしつかり考へて書いたものなら、わかり易いのである。自分で考へるといつても、必ずしもいはゆる獨創的であることをいふのではない。哲學の歴史を少し綿密に辿つた者は、いはゆる獨創的なものがそんなに多くはないことを知るであらう。またあらゆる哲學研究者に獨創的であることを
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