ることを要求されるけれども、しかし思想は思想として直觀的に理解されるといふ性質を失はないであらう。それ故に豐富な思想によつて生かされてゐる哲學は「理窟でなしにわかる」といふ方面をもつてゐる。かかる見地からすれば、哲學がむつかしいと云はれるのは、哲學における思想の貧困にもとづくものと見られよう。
 よく云はれることは、現在の日本の哲學のむつかしいのは、それが西洋の哲學の模倣であり、飜譯であるからである、といふことである。しかしさういへば、數學だつて物理學だつて根本においては同じことではないかといふ議論もできよう。哲學は實にへんてこな言葉を使ふのでわからないと云ふ。しかし物理學の術語でも、數學の符號ですらがしろうとにはわからないものではないか。哲學上の種々なる術語も少し勉強すればわかる筈だ。かうして哲學がむつかしいと一般に云はれるとき、それは根本において何か別の意味で語られてをり、そしてそれは哲學の或る特殊性に關係してゐるのでなければならぬ。即ち哲學には何かほんたうに模倣できないもの、飜譯できないものが含まれるのである。そのやうなものは哲學の理論的要素ではなく、寧ろ思想的要素であらう。模倣
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