學者の書いた數學書がわかり易いやうに、好い哲學者の書いた哲學書はわかり易い。それだから、わからないことはわからないとして、自分にわかつたことだけを克明に書いてゆくといふことが大切であらう。さうすることによつて自分にも他人にも役立つものとなるのである。わからせるためには、ごまかさないといふことが必要である。わからせるためには、どこまでも論理的で、理論的で、方法的で、秩序的でなければならぬことは云ふまでもない。さうでないためにむつかしいとすれば、實はむつかしいのでなく、わからないのである。
 しかしそれにしても、高等數學がむつかしいといふのと哲學がむつかしいといはれるのとの間には、何か區別があり意味の違ひがあるやうである。準備の全然ない者がいきなり高等數學にとりつくといふやうなことはあまりなからうが、哲學の場合では誰でもが何かの機會にそれにとりついてみようとするといふことがある。これは哲學にとつて固より恥辱であるのでなく、寧ろ光榮であると云はねばならぬ。けれどもかかる哲學にとつての光榮は哲學に對する非難に變ずることがある。さういふ人々によつて哲學のむつかしさが非難される。彼等が哲學において
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