それにしてもなほ哲學はむつかしくはないであらうか。そこにはまた逆に、こんどは哲學者自身が反省してみなければならぬ色々な問題があるのではないであらうか。
 單純なことであるけれど、「むつかしい」といふことと「わからない」といふこととは同じでない。例へば、高等數學はむつかしい、しかしわからないものではない、順序を踏んで研究すればわかる筈のものである。哲學にもそのやうな意味でのむつかしさがあるであらう、それ故に唯むつかしいとのみ云はないで、わかるやうにするために筋道を踏んで勉強しなければならぬ。然るに數學の場合には「わからない」ものの書かれることが殆どないに反し、哲學においては往々にして「わからない」ものが書かれることがあるやうである。さういふものは唯むつかしいのでなく、もともとわからないのである。わからないものが書かれてゐるために、哲學はむつかしいといふ評判を作つてゐることがないでもないやうである。哲學が「むつかしい」といふことは致方がないとしても、「わからない」ものが書かれるといふのは困つたことだ。わからないのは、實はそれを書いた當人にもよくわかつてゐないからだと云はれるであらう。好い數
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