期待し得るわけのものでなく、希望されることは思索の根源性といふことである。他の哲學を模倣したり飜譯したりするのでなく、他の哲學に從つて或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。思索の根源性によつて何よりも哲學上の問題が生きて來るのであり、問題が生きてゐるといふことがまたひとにとつてわかり易くなる一つの要點である。そのうちに問題が生きてゐるものは何といつてもわかり易い。さういふ問題は現實性を有する問題である。本からでなく、物から考へることが大事である。自分にとつて現實的に問題になつてゐないことを、それが流行であるからといつて、或ひはそれについてひとが論じてゐるからといふので、問題にしたのでは、わからないものになるのは當然であらう。
現在の日本の哲學のむつかしいのは、あまりに折衷的乃至混合的であるためだとも云はれ得る。そこでは思索の根源性が失はれるからである。思索の根源性からいへば、自分にとつてほんとに根源的に理解し、思惟し、研究してゆくことのできる立場といふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの)であり、他の人にとつては他の種類の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從つて運命的とも性格的ともいふべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。今の日本のやうに何か最新流行の哲學といふやうなものがあり、それが次から次へめまぐるしく變つて行き、そして或るものが流行だといへば、誰も彼もが、從つてそれが自分の性に合つてゐない人々までが、それを追つかけるといふ傾向があつては、哲學がむつかしいと非難されても仕方がないであらう、なぜならそのやうな状態では思索の根源性も、純粹性も、それ故に徹底性もあり得ないからだ。流行を追ふといふことは哲學の場合にも浪費を意味する。それは個人としても、哲學界全體としても、たしかに浪費である。そのやうな状態が特に日本において著しいといふのは、日本にはまだしつかりした哲學の傳統がないためであらう。そしてこの傳統がないといふことが哲學のむつかしいひとつの原因であり、いな、その最大の原因であると云へる。
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