ることを要求されるけれども、しかし思想は思想として直觀的に理解されるといふ性質を失はないであらう。それ故に豐富な思想によつて生かされてゐる哲學は「理窟でなしにわかる」といふ方面をもつてゐる。かかる見地からすれば、哲學がむつかしいと云はれるのは、哲學における思想の貧困にもとづくものと見られよう。
よく云はれることは、現在の日本の哲學のむつかしいのは、それが西洋の哲學の模倣であり、飜譯であるからである、といふことである。しかしさういへば、數學だつて物理學だつて根本においては同じことではないかといふ議論もできよう。哲學は實にへんてこな言葉を使ふのでわからないと云ふ。しかし物理學の術語でも、數學の符號ですらがしろうとにはわからないものではないか。哲學上の種々なる術語も少し勉強すればわかる筈だ。かうして哲學がむつかしいと一般に云はれるとき、それは根本において何か別の意味で語られてをり、そしてそれは哲學の或る特殊性に關係してゐるのでなければならぬ。即ち哲學には何かほんたうに模倣できないもの、飜譯できないものが含まれるのである。そのやうなものは哲學の理論的要素ではなく、寧ろ思想的要素であらう。模倣や飜譯のできないものを模倣し飜譯しようとするから、むつかしくなり、わからなくなるのである。理論は模倣され飜譯されてもわかるものである(それがほんたうの模倣、ほんたうの飜譯でなければならぬことは云ふまでもない)。さうでないのは思想である。しかも理論も哲學においては思想と結合してをり、はなればなれのものでない。かくして哲學において要求されるのは「思索の根源性」であると云はれ得るであらう。それだからして大哲學者の著作は多くの亞流の書いたものよりも本質においてわかり易い。思索の根源性があるからである。古典はそこいらの書物よりもわかり易い。およそ古典となるものには「天才的な單純さ」といつたものがある。解説書よりも原典が結局わかり易いといふことは多くの場合に經驗されることである。そこで哲學において大切なのは思索の根源性でなければならぬ。自分でしつかり考へて書いたものなら、わかり易いのである。自分で考へるといつても、必ずしもいはゆる獨創的であることをいふのではない。哲學の歴史を少し綿密に辿つた者は、いはゆる獨創的なものがそんなに多くはないことを知るであらう。またあらゆる哲學研究者に獨創的であることを
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