學者の書いた數學書がわかり易いやうに、好い哲學者の書いた哲學書はわかり易い。それだから、わからないことはわからないとして、自分にわかつたことだけを克明に書いてゆくといふことが大切であらう。さうすることによつて自分にも他人にも役立つものとなるのである。わからせるためには、ごまかさないといふことが必要である。わからせるためには、どこまでも論理的で、理論的で、方法的で、秩序的でなければならぬことは云ふまでもない。さうでないためにむつかしいとすれば、實はむつかしいのでなく、わからないのである。
しかしそれにしても、高等數學がむつかしいといふのと哲學がむつかしいといはれるのとの間には、何か區別があり意味の違ひがあるやうである。準備の全然ない者がいきなり高等數學にとりつくといふやうなことはあまりなからうが、哲學の場合では誰でもが何かの機會にそれにとりついてみようとするといふことがある。これは哲學にとつて固より恥辱であるのでなく、寧ろ光榮であると云はねばならぬ。けれどもかかる哲學にとつての光榮は哲學に對する非難に變ずることがある。さういふ人々によつて哲學のむつかしさが非難される。彼等が哲學において求めるのは人生觀とか世界觀とかいつたもの、一般に思想である。「理論」に對して「思想」といふものが區別される。哲學には理論的要素と思想的要素とが含まれる。尤も二つの要素ははなればなれのものであるべきでなく、思想が飽くまでも理論化されるところに哲學があると云はれよう。最近の哲學は、いはゆる嚴密な科學としての哲學に對する要求が強く、思想的であるよりも理論的であることに努めてゐると見られる。そして恰もそこに、哲學においていきなり思想を求める人々が、今日、哲學はむつかしいと感ずる理由があるとも考へられる。從つて今日の哲學をばわかり易いと思はれるものにするためには、もつと豐富な思想的要素がそのうちに盛られること、一層正確に云へば、哲學がもつと豐富な思想を背景として、或ひは地盤として作られることが要求されてゐるとも云はれ得るであらう。實際、哲學において「思想」に對する要求は根源的なものであつて、思想的要素を除外して純粹な「理論」として哲學を打ち建てようといふ主張そのものが既にひとつの思想として、云ひ換へれば、ひとつの世界觀乃至人生觀として受取られるといふほどである。思想は哲學において飽く迄理論化され
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