哲學はどう學んでゆくか
三木清

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 哲學はどう學んでゆくかといふ問は、私のしばしば出會ふ問である。今またここに同じ題が私に與へられた。然るにこの問に答へることは容易ではないのである。これがもし數學や自然科學の場合であるなら、どういふものから入り、どういふ本を、どういふ順序で勉強してゆくべきかを示すことは、或ひはそんなに困難ではないかも知れない。それが哲學においては殆ど不可能に近いところに、哲學の特色があるともいへるであらう。哲學は何であるかの定義さへ、立場によつて異つてゐる。立場の異るに從つて、入口も異る筈である。しかも哲學的知識には、端初が同時に終末であるといふやうなところがあるのである。それにしてもどこかに手懸りがなければ、およそ研究を始めることも不可能であるとすれば、その手懸りが何とか與へられなければならぬ。これはどこに求むべきであるか。立場の相違は別にして、およそ哲學といふものを掴んでゆく最初の手懸りは、どこに、どういふ風に探してゆくべきか。質問がそこにあるとして、私の乏しい經驗に基づいて、少し述べてみたいと思ふ。

       一

 いつも先づきかれるのは、哲學概論は何を讀めば好いかといふことである。何でも好いから一册だけ讀んでみ給へ、といつも私は答へるのである。といふ意味は、概論といふ名前に拘泥してはならぬといふことである。哲學概論と稱するもの、必ずしも哲學の勉強の最初の手引になるものではない。概論といつても哲學の場合、著者自身の立場が出てをり、著者自身の哲學への入門であつたり、著者自身の哲學の總括であつたりすることが多いのである。そのうへ概論といふもの、必ずしもやさしいとは限らない。世間には哲學概論と名の附く書物を幾册も買ひ込んで、それに頭を惱ましてゐる人があるやうであるが、愚かなことではないかと思ふ。哲學においては、概論書から入ることを必ずしも必要としないし、またそれが必ずしも最善の道でもないのである。初めに概論が讀みたいといふのなら、何でも一册でたくさんだといひたい。何でもといふのは、私はそれにあまり重きをおかぬといふことである。哲學上の用語の意味を知らうといふのなら、哲學辭典がある。またどのやうな説があり、どのやうな傾向があるかを知るには、哲學史に依らねばならぬ。もちろん私は決して哲學概論といふものを輕蔑するのではない。私がいひたいのはただ、順序として先づ概論の名の附くものを讀まねばならぬかの如く考へる形式的な考へ方にとらはれないといふことである。哲學に入る道はもつと自由なものと考へて好い。

       二

 私自身の經驗を話すと、高等學校の頃、哲學に關心をもち始めたとき、わが國にはまだ哲學概論と稱する種類の書物は殆ど見當らなかつた。私が哲學に引き入れられたのは西田幾多郎先生の『善の研究』によつてであつた。そして今も私はこの本を最上の入門書の一つであると思つてゐる。その頃の高等學校には、文科にも哲學概論の講義はなく、あつたのは心理と論理とだけであつた。また高等學校の時には、後に哲學を專攻する者も、心理と論理とを勉強しておくものだといふのが、私ども一般の考へでもあつた。そしてその頃は世界戰爭の影響でドイツ語の本は全く手に入らなかつたので、私はジェームズの『心理學原理』とかミルの『論理學體系』とかいつたものを丸善から求めてきて、ぼつぼつ繙いてゐた。それは日本の哲學書出版に時代を劃した岩波の『哲學叢書』が刊行され始めた時期であつて、その中のヴィンデルバントのものを紹介した『哲學概論』を讀んでみたが、正直にいふと、よく理解できなかつたのである。三年生の時、小さな會を作つて、ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲學とは何か』を謄寫版刷りにして速水滉先生から讀んで戴いた。高等學校時代、私は直接には速水先生から最も多く影響を受けた。心理學の本を比較的多く勉強したのもそのためであるが、最も興味を感じたのは、ジェームズの『心理學原理』であつた。そしてこれは今も私が人に勸めたい本の一つである。ヴィンデルバントの『哲學概論』は概論中の白眉として定評のあるものであり、ぜひ目を通さねばならぬものではあるが、初めに讀むものとしては少しむづかしいであらう。この人のものとしては寧ろ初めに『プレルーディエン(序曲)』を讀むのがよいと思ふ。これはそれ自身立派な入門書と見ることができる。ヴィンデルバントの哲學概論と共にわが國で知られてゐるディルタイの『哲學の本質』も、重要なものではあるが、やさしいとはいへない。もちろん、場合によつては、難解な書物に直接ぶつつかつてゆくことも、意味のあることである。高等學校を卒業した夏、速水先生の紹介状をもつて京都に西田先生を初めて訪問した時、休みの間にこれを讀んでみよといつて先生が私に貸して下さつた書物は、カントの『純粹理性批判』であつた。その頃はまだこの本の飜譯も出てゐなかつたので、ドイツ語の辭書を引きながら、一生懸命に勉強したが、わからないことが多くて困難したのを覺えてゐる。その後桑木嚴翼先生の『カントと現代の哲學』が出たが、これも入門書として勸めたいものの一つである。

       三

 先づ必要なことは、哲學に關する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲學的精神に觸れることである。これは概論書を讀むよりももつと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲學者の書いたものを讀まなければならぬ。
 そのためにあまり難解でなくて誰にも勸めたいものを一二擧げてみると、さしあたりプラトンの對話篇がある。そのいくつかは既に日本譯が出來てをり、英語の讀める人ならジョーエットの飜譯がある。プラトンの對話篇は文學としても最上級のものと認められてゐる。近代のものでは何よりもデカルトの『方法敍説』を擧げたい。これもまた哲學的精神を掴むために繰返し讀まるべきものであり、フランスの文學にも影響を與へた作品である。もし日本人の書いたものを擧げよといはれるなら、私はやはり西田先生の書物を擧げようと思ふ。
 もちろん古典であるなら、どのやうなものでも、そこに哲學的精神に觸れることができる。古典を讀む意味、解説書でなくて原典を讀む意味は、何よりもこの哲學的精神に觸れるところにある。精神とは純粹なもの、正銘のものといふことができるであらう。美術の鑑定家は、正銘のもの、眞正のものを多く見ることによつて眼を養ひ、直ちに作品の眞僞、良否を識別することができるやうになるのであるが、同じやうに書物の良否を判斷する力を得るためには、絶えず古典即ち純粹なものに接してゆかなければならぬ。書物の良否の本來の基準はこのやうに、純粹であるか否か、根源的であるか否か、精神があるか否かといふところに存するのである。もしそれが單に役に立つか否かといふことであるとすれば、書物の良否といふものは相對的であつて、絶對に良いといひ得るものもなく、絶對に惡いといひ得るものもない。或る人にとつては良書であるものも、他の人にとつては惡書であり得る。全く役に立たぬやうに見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであらう。讀書の樂しみは、このやうに發見的であることによつて高まるのである。

       四

 哲學の書物は難解であると一般にいはれてゐる。この批評には著作家の深く反省しなければならぬ理由もあるのであるが、讀者として考へねばならぬことは、哲學も學問である以上、頭からわかる筈のものでなく、幾年かの修業が必要であるといふことである。そこには傳統的に用ゐられてゐる術語があり、また自分の思想を他と區別して適切に或ひは嚴密に表現するために新しい言葉を作る必要もあるのである。しかし哲學は學問ではあるが、フィヒテがその人の哲學はその人の人格であるといつたやうに、個性的なところがあることに注意しなければならぬ。從つて哲學を學ぶ上にも、自分に合はないものを取ると、理解することが困難であるに反し、自分に合ふものを選ぶと、入り易く、進むのも速いといふことがある。すべての哲學は普遍性を目差してゐるにしても、そこになほ一定の類型的差別が存在するのであるから、自分に合ふものを見出すやうに心掛けるのが好い。その意味ですでに研究は發見的でなければならぬ。流行を顧みるといふことは時代を知り、自分を環境のうちに認識してゆくために必要なことであるけれども、流行にとらはれることなく、どこまでも自分に立脚して勉強することが大切である。そして先づ自分に合ふ一人の哲學者、或ひは一つの學派を勉強して、その考へ方を自分の物にし、それから次第に他に及ぶやうにするのが好くはないかと思ふ。最初から手當り次第に讀んでゐては、結局同じ處で足踏みしてゐることになつて進歩がない。他の立場に注意することはもちろん必要であるが、先づ一つの立場で自分を鍛へることが大切である。廣く見ることは哲學的である、同時に深く見ることが哲學的である。
 ドイツは世界の哲學國といはれてをり、哲學を勉強するにはドイツのものを讀まねばならぬが、ドイツの哲學には傳統的に難解なものが多いといふことがある。英佛系統の哲學になると比較的やさしく讀めるであらう。やさしいから淺薄であると考へるのは間違つてゐる。ドイツの影響を最も受けてゐる現在の日本の哲學書を難解と思ふ人には、英佛系統の哲學の研究を勸めたい。ドイツの哲學者でも劃期的な仕事をした人は、英佛の影響を受けてゐるものが多く、カントがさうであつたし、近くはフッサールがさうであつて、彼の現象學にはデカルトやヒュームの影響が認められる。その場合、入門的な書物としてさしあたりベルグソンの『形而上學入門』とかジェームズの『プラグマティズム(實用主義)』の如きを勸めたい。フランスとかイギリスとかアメリカとかの哲學の眞の意味は、日本では專門家の間でもまだ十分に廣く發見されてゐないのではないかと思ふ。尤も、どこのものであるにせよ、外國の模倣が問題であるのでないことは云ふまでもないことである。

       五

 哲學を學んでゆくのに、自分に立脚すべきことを私はいつた。それはただ單にいはゆる瞑想に耽ることではない。私のいひたいのは先づむしろもつと具體的に、諸君がもし自然科學の學徒であるならその自然科學を、またもし社會科學の學徒であるならその社會科學を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史學を、或ひはもし藝術の愛好者であるならその藝術を手懸りにして、そこに出會ふ問題を捉へて、哲學を勉強してゆくことである。プラトンはその門に入る者に數學の知識を要求したと傳へられてゐるが、哲學の研究者はつねに特に科學に接觸することが大切である。古來哲學は科學と密接に結び附いて發達してきたのである。
 この場合科學と哲學との橋渡しをするものとして科學概論といふものが考へられるであらう。科學もその方法論的基礎を反省する場合、その體系的説明を企※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、459−9]する場合、つねに哲學的問題に突き當る。そこで科學概論の書物も立場の異るに從つて内容を異にするのは當然である。いま立場の相違は別にして、先づどういふものを讀めばよいかと尋ねられるなら、少し古いにしても、英語の讀める人にはピーアスンの『科學の文法』を勸めたい。日本のものでは田邊元先生の『科學概論』が知られてゐる。この方面における石原純先生の功績は大きく、忘れられないものである。また文化科學の方面ではディルタイの『精神科學概論』、歴史の方面ではドゥロイゼンの『史學綱要』といふ風に、いろいろ擧げることができるであらう。リッケルトの『文化科學と自然科學』は、ともかく明晰で、最初に讀んでみるに適してゐる。
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