六
ここに私が一緒に體驗してきた比較的新しい日本の學界における出來事を囘顧すると、一時わが國の文化科學研究者の間に哲學が流行し、ヴィンデルバント、リッケルトの名を誰もが口にした時代があつた。それは主として左右田喜一郎先生の影響に依るものである。私自身、先生の『經濟哲學の諸問題』に初めて接した時の興奮を忘れることができぬ。京都で聽いた先生の講義も感銘深いものであつた。いはば文學青年として成長してきた私がともかく社會科學に興味をもつやうになつたのはその時以來のことである。その後マルクス主義が流行するやうになつたが、それが日本の學界にもたらした一つの寄與は、それがやはり科學の研究者に哲學への關心を、逆に哲學の研究者に科學への關心を喚び起したことである。今日いはゆる高度國防國家の必要から科學の振興が叫ばれてゐるが、この際科學と哲學との交渉についても新たな反省が起ることを希望したいのである。
哲學と科學との間に生きた聯關が形作られることは日本の哲學の發展にとつて甚だ重要である。私はこのことを、これから哲學を勉強しようといふ若い人々に對して、特にいつておきたいと思ふ。
ところで既に哲學概論についていつたことが科學概論についてもいはれるであらう。つまり概論の名に拘泥して、先づ概論書に取り附いてこれを物にしなければならぬといふやうに形式的に考へる必要はないのである。殊に科學の場合、哲學者の科學論よりも科學者のそれから教へられることが多いであらう。例へばディルタイの精神科學論がすぐれてゐるのは、この哲學者が實證的歴史的研究においても第一流の人物であつたことに依るのである。また科學においては特殊研究が重要であることを忘れてはならぬ。元來、哲學が科學に接觸しようとするのは、物に行かうとする哲學の根本的要求に基づいてゐる。哲學者は物に觸れることを避くべきでなく、恐るべきではない。物に行かうとする哲學は絶えず物に觸れて研究してゐる科學を重んじなければならぬ。
七
つねに源泉から汲むことが大切である。源泉から汲まうとするのが哲學的精神であるといひ得るであらう。物に觸れるといふことも源泉から汲むためである。本を讀むにも第一流の哲學者の書いたものを讀むといふことは、思想をその源泉から汲むためである。哲學の研究者が科學者のものを見る場合においても、やはり第一流の科學者の著述に向ふことが肝要である。
かやうなものとして哲學を勉強しようとする人に勸めたい本は、私の乏しい知識の範圍でも、かなり多い。その一二の例を擧げると、例へばポアンカレの『科學と方法』その他である。マッハの如きも、マルクス主義流行の時代にはマッハ主義といつて輕蔑されたものであるが、見直さるべきものであると思ふ。少し方面を變へると、例へばクロード・ベルナールの『實驗醫學序説』である。更に社會科學の方面になると、マックス・ウェーベルの『科學論論集』の如きが先づ擧げられるであらうし、もつと方面を變へると、科學者とはいはれないにしてもゲーテの自然研究に關する諸論文の如きは勸めたいものである。
かやうに科學といつても範圍は廣いし、その上各々の科學は次第に專門化してゆく傾向をもつてゐるとすれば、哲學の研究が科學と結び附かねばならぬことは分るにしても、人間は萬能でない限り、どうしたらよいのかと問はれるであらう。その場合私はやはり自分に立脚すべきことをいひたい。一通り廣く見ることは必要であるが、何か一つの學科を選んで深く研究し、できるなら、專門家の程度に達するやうにしたいものである。哲學は普遍的なものを目差すのであるが、普遍的なものは特殊的なものと結び附いて存在する。抽象的に普遍的なものを求むべきではなく、特殊的なもののうちに普遍的なものを見る眼を養はなければならぬ。數學的物理學は近代科學の典型であり、それを知ることは大切であるが、すべての人の才能がそれに適するわけではなからう。しかし種々の自然科學及び文化科學の中には、何か自分に興味がもて自分に適するものがある筈である。ベルグソンは、數學や物理學はギリシア以來その基礎が定まつてをり、現代の科學として哲學において注目すべきものは生物學と心理學である、といつてゐるが、この意見の當否はともかく、彼の哲學が生物學の研究に負ふところの多いことは一般に認められてゐる。論理主義を唱へて心理主義を攻撃した新カント派の哲學が一時わが國に流行してから、哲學を學ぶ者が心理學を勉強するといふ、それ以前の日本ではむしろ常識として行はれたことが次第になくなつていつた。しかし最近のゲシュタルト心理學の如き、或ひはまたプラグマティズムの哲學と結び附いて發達してゐるアメリカの社會心理學の如き、哲學の研究者の顧みなければならぬものであらうと思ふ。更に現代の科學として特に重要な意味をもつてゐるものに、社會科學、文化科學、精神科學、歴史科學等の名をもつて呼ばれるものがある。歴史的社會的實在が現代哲學の根本問題であるともいはれるのである。自然科學はガリレイ以來その基礎が定まつてゐるが、社會科學にはまだそのやうに定まつたものがなく、その基礎を明かにすることが現代の重要な課題であるともいはれるであらう。要するに學問においても、人生においてと同樣、自分を發見することが大事である。その自分は同時に時代のうちに發見されるものであることは云ふまでもない。
哲學はもちろん科學と同じではない。しかし哲學は科學によつて媒介されねばならぬ。科學を萬能と考へるのではない。そのやうに考へる人には哲學は不要であらう。無條件に科學を信じてゐる者はすぐれた科學者になることもできないであらう。科學的知識を絶對的なもののやうに考へるのはむしろ素人のことであつて、眞の科學者は却つてつねに批判的であり、懷疑的でさへあるといはれるであらう。少くとも科學を疑ふとか、その限界を考へるとかいふところから哲學は出てくる。しかしながら懷疑といふのは、物の外にゐて、それを疑つてみたり、その限界を考へてみたりすることではない。かくの如きは眞の懷疑でなくて、感傷といふものである。懷疑と感傷とを區別しなければならぬ。感傷が物の外にあつて眺めてゐるのに反し、眞の懷疑はどこまでも深く物の中に入つてゆくのである。これは學問においても人生においてもさうである。容易に科學の限界を口にする者はまた無雜作に何等かの哲學を絶對化するものである。感傷は獨斷に陷り易い。哲學はむしろ懷疑から出立するのである。そのやうな懷疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法敍説』を、或ひはまた懷疑論者と稱せられるヒュームの『人生論』を、或ひは更にモンテーニュの『エセー(隨想録)』を讀んでみるのも、有益であらう。
八
多くの人々は人生の問題から哲學に來るであらう。まことに人生の謎は哲學の最も深い根源である。哲學は究極において人生觀、世界觀を求めるものである。ただその人生觀或ひは世界觀は哲學においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。もちろん直觀を輕蔑すべきではない。そして忘れてならないのは、直觀も訓練によつて育てられるものであるといふこと、その訓練は論理的訓練にも増して嚴しいものであるといふことである。哲學そのものが直觀であるかどうかは意見の別れるところであるが、いづれにしても直觀を輕んずるのは愚かなことであり、直觀を育てることは努力に値することである。
人生の問題から直接に哲學に入らうとする人々に先づ勸めたいのはフランスのモラリストの研究である。パスカル、モンテーニュなど、日本語で讀めるものも追々多くなつてゐる。私にとつて特にパスカルが啓示的であつた。彼等の人生論には獨特の實證性がある。科學の實證性とは異つてゐるが、また相通ずるものがある。この實證性に目を留めねばならぬ。それらの書物はやさしく讀めるからといつて、簡單に讀み捨ててはならない。難かしい言葉を使ふことが哲學であるかのやうに考へてゐる者があるとすれば、笑ふべきである。それらの書物は立ち停つて考へようとする人に多くのことを考へさせるであらう。多くのことを考へさせる本が善い本であり、これは用語の難易には關係しないことである。モンテーニュ、パスカルなどから哲學の本筋に來てデカルトに行くもよく、或ひはスピノザの『エティカ(倫理學)』に行くもよく、或ひはまたマキアヴェリの『君主論』などに行つてみるのも面白いであらう。
考へてみると、私どもが哲學の勉強を始めてからこの二十年間に、著述飜譯を併せて日本における哲學書も次第に殖えてきた。廣く多くの本を讀むべきか、深く一册の本を讀むべきかといふ讀書の方法論の問題が、哲學を學ばうとする者にも現實に生じてゐる。兩者は共に必要であるが、いづれを先にするかといふ問題が實際にあるとすれば、私は先づ一册の本にかじりついてそれをものにするやうにといひたい。その一册はもちろんそれに値するものでなければならぬ。その點で、カントの『純粹理性批判』といふやうな古典は別にしても、新刊書よりも十年なり十五年なり生命を保つてゐるものを取るべきである。新しいものを見ることも大切ではあるが、先づそれから始めると、遂に一册の本を深く讀む習慣を作らないでしまふやうな危險があるといふのが、今日の讀書人のおかれてゐる環境である。人生について深く考へようとする者に東洋の古典を讀むことが大切であるのは云ふまでもなからう。
私は哲學を勉強しようとする者にも直觀を育てることが必要であると述べた。しかし學問として哲學を學ぶことは思考すること、明晰に思考することを學ぶことである。もちろん直觀にもそれ自身の明晰性と嚴密性がある。しかし直觀の明晰性や嚴密性も、論理的に明晰に嚴密に思考することを知らない者には達せられないであらうし、少くとも哲學的に重要なものとはならないであらう。明晰に思考することを學ばうとする者は先づ初めにどのやうな本を讀めばよいであらうか。さしあたり私はリッケルトの『認識の對象』の如きを勸めたい。この本は私どもが哲學の勉強を始めた時分には殆ど誰もが入門書として讀んだものである。今はどれほど讀まれてゐるか知らないが、私は今もやはりこれを一つの適當な入門書であると考へてゐる。
九
すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。この豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。
ところで思考については論理學の存在が考へられるであ
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