らう。哲學に入らうとする者が論理學に關する知識をもたねばならぬことは當然である。先づ普通に論理といふものについて知るには、速水滉先生の『論理學』を見るのが好いと思ふ。英語のものでは、ジェヴォンズの『論理學教科書』を勸めたい。少し大きいが、ミルの『論理學體系』は古典的なものとして、今もなほ多くの學ぶべきものをもつてゐる。ドイツ語のものでは、これも大きいが、ジグワルトの『論理學』なぞ、論理學から認識論への道を開くものとして適當であらう。
明晰に考へることを學ぶといふのは何よりも分析を學ぶことである。この頃分析を排する傾向があるが、しかし分析なしには學問といふものはない。東洋的な直觀とか綜合とかいふものは尊重されねばならないが、しかしそれが學問となるためには論理をくぐつてこなければならぬ。哲學的な分析の修練のために勉強しなければならぬものとして擧げておきたいのは、アリストテレスの著作、その『形而上學』の如きもの、カントの著作、特にその『純粹理性批判』である。アリストテレスは形式論理といふものの完成者であり、カントは先驗論理といふものの創始者である。これらの書物はもとよりその内容のためにもぜひ讀まれねばならぬものである。内容のない思惟、何物かの分析でないやうな分析があるであらうか。しかしこれらの書物は特に我々を哲學的な思惟に對して訓練してくれるのである。これらの書物は讀み易いものではないであらう。難解なものにぶつつかつてゆく勇氣と根氣とが大切である。考へることを學ぶには解説書によつてはいけない。問題をその根源において捉へた書物と直接取組んで勉強することが肝要である。
一〇
論理といふものにもいろいろ考へられるであらう。今日わが國では誰も彼もが辯證法をいふ。辯證法には確かに深い眞理があるが、ただ、初めから辯證法にとりつかれると、マンネリズムに墮して却つて進歩がなくなるとか、折衷主義に陷つて却つてオリヂナリティが塞がれるとか、すべての問題を一見いかめしさうでその實却つて安易に片附けてしまふとかいつた危險があることに注意しなければならぬ。虎を畫いて狗に類するといつたことは辯證法には多いのである。學問において尊いのは外見ではなくて内實である。難かしく見えても、また深さうに見えても、根が常識を出ないのでは、學問の甲斐はないであらう。そこで私は、結局は辯證法にゆくべきものであるにしても、先づアリストテレスの論理とかカントの論理とかをよく研究することを勸めたい。その方が間違ひがなく、またそれが順序でもある。新しい哲學は何か新しい論理をもつて現はれてくるものであるから、論理の問題に踏みとどまつて深く研究するのは大切なことである。
辯證法の最初の組織者はヘーゲルであり、辯證法を學ぶにはどうしても彼の書物に依らねばならぬ。その『論理學』の如き、ぜひ勉強すべきものであるが、なにぶん彼の書物は難解をもつて知られてゐる。そこでヘーゲルは何から入るのが好いかといふ質問によく出會ふ。比較的わかり易いものとして普通に彼の『歴史哲學』が擧げられるが、これも適當であるが、私はむしろ彼の『哲學史』を勸めたい。ヘーゲルの哲學史は、そのものとして今日も價値をもつてゐるばかりでなく、哲學は哲學史であるといふ立場からつねに哲學史的教養を豫想してゐる彼の哲學を理解するために、またおよそ辯證法的な物の見方を習得するために、初めに讀むに適當であると思ふ。ヘーゲルについて書いた多くの參考書を讀むよりも、たとひ難解であつても、ヘーゲルそのものを幾頁でも研究することが一層大切であるのを忘れてはならない。正、反、合とか、否定の否定とかいつた形式を覺えることでなく、物を辯證法的に分析することを學ぶことが問題である、辯證法の形式にはめて物を考へるといふのでなく、物をほんとに掴むと辯證法になるといふのでなければならぬ。論理は物のうちにあるのでなければならぬ。
論理學は認識論につらなつてゐる、むしろ兩者は一つのものである。その認識論といふものの問題が如何なるものであるかを知るために初めに讀んでみるものとしては、先にも擧げたリッケルトの『認識の對象』などが好いであらう。或ひは趣向をかへて、ロックの『人間悟性論』とかヒュームの『人生論』とかから根氣よく始めるのも好いであらう。ドイツあたりでは認識論の入門とか概論とか稱するものがいろいろ出てゐるやうであるが、この種の書物はだいたい受驗準備書としてできてゐるものが多く、讀んで面白くなく、得るところも少いであらう。
哲學の主要問題はよく認識論と形而上學とに區分されるが、實際には兩者は密接に結び附いてゐる。知識の問題は實在の問題を含み、實在の問題は知識の問題を含んでゐる。カントの『純粹理性批判』は普通に認識論の問題を取扱つたものと考へられてゐるが、それを形而上學の基礎附けであると見るハイデッゲルの如き見方も存在するのである。私どもが哲學の勉強を始めた頃には認識論が全盛であつたが、今日では反對に形而上學が流行して認識論はあまり顧みられず、論理といつても殆ど辯證法一點張りになつてゐる。これにも或る必然性があるであらうが、かやうな時代にむしろ認識論の問題から出直してみることが却つて新しい哲學の生れてくる契機になるかも知れない。哲學者には、時代の中にあつてこれを超え得る心のゆとり、精神の自由が欲しいものである。
論理は具體的には特に科學の論理、或ひは認識論的意味における科學の方法論である。ここに哲學の一つの重要な領域が存在することは先にいつた通りである。もちろん哲學の問題は、論理の問題にしても、また實在の問題にしても、單に科學のみでなく、あらゆる方面に横たはつてゐる。各人は自分の立つてゐる所から問題を捉へて哲學に向はねばならぬことは既に述べておいた。從來哲學において問題とされてゐるものが何であるかを知ることも必要ではあるが、現代には現代の問題があるであらう。この轉換期において哲學は生きるか死ぬるかの重大な危機に立つてゐるのではないかと思ふ。問題を發見することは既に半ば問題を解決したことであるといはれるが、大きな哲學はつねに大きな問題を提げて現はれてきた。これから哲學をやらうといふ人に期待されるものは大きく、それだけにまた大きな覺悟を要するのである。
一一
ところで如何なる創造も傳統なしにはあり得ないといふ意味において、哲學をやらうといふ者は絶えず哲學史を顧みなければならぬであらう。今初めて哲學史を見ようといふ人には、波多野精一先生の『西洋哲學史要』を勸めたい。もう少し詳しいもので、しかもわかり易いものを求める人には、フォルレンデルの『西洋哲學史』が適當であらう。ヴィンデルバントの『哲學史教科書』は問題史的な哲學史として特色があり、目を通さねばならぬ名著であるが、入り易いものとはいへないであらう。各時代についてはそれぞれ標準的な書物があるが、ここには煩瑣を避けて擧げない。またユーベルウェークの『哲學史』のやうな辭典として便利な書物もある。
西洋哲學の源泉として重要なものは、近代科學を別にすれば、ギリシア哲學とキリスト教である。私自身は特に波多野先生の講義や談話によつてこれらのものに對して眼を開かれた。西洋哲學を研究しようとする者はキリスト教の知識を備へなければならないが、とりわけギリシア哲學を研究することが大切である。その研究は現代において特に重要な意味をもつてゐるのではないかと思ふ。西田先生の思想の如きも、先生がギリシア哲學に深く入られるやうになつてから著しい發展があつたやうに思ふ。哲學史に就いて思想の歴史的聯關を見ることは忘るべきではないが、更に進んで、自分で原典にあたつて研究することが大切である。原語で讀むに越したことはないが、たとひ飜譯であつても、古典は完全な形で讀むべきである。何でも原語で讀まなければ氣がすまぬといつて、そのために讀むべき本を讀まないでゐる人もあるが、愚かなことであると思ふ。絶えず古典に接することが大切であるといつても決して、新しいものを讀むことが不必要なわけではない。古典の中にばかり閉ぢ籠つてゐると、ひとりよがりになるとか、學問が趣味に墮してしまふといふやうな危險があるのである。古典も新しい眼をもつて見なければ生きてこないのであつて、それには現代の問題について深い關心がなければならぬ。もちろん古典をただ勝手に解釋すれば好いといふのではない。初めからかやうな態度をもつて臨めば、どのやうな本を讀んでも益はないであらう。眞の讀書においては著者と自分との間に對話が行はれるのである。しかも自分が勝手な問を發するのでなく、自分が問を發することは實は著者が自分に問を掛けてくることであり、しかも自分に問題がなければ著者も自分に問を掛けてこない。かくして問から答へ、答は更に問を生み、問答は限りなく進展してゆく。この對話の精神が哲學の精神にほかならない。
哲學の個々の部門、例へば歴史哲學、社會哲學、藝術哲學、道徳哲學、宗教哲學、等々について、私の乏しい經驗の範圍内でもなほいろいろ注意しておきたいことがあるが、與へられた紙數も盡きたから、ここでひとまづ筆を擱くことにする。
底本:「三木清全集 第一巻」岩波書店
1966(昭和41)年10月17日発行
初出:「圖書」岩波書店
1941(昭和16)年3〜5月
入力:石井彰文
校正:川山隆
2008年1月25日作成
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