と思ふ人には、英佛系統の哲學の研究を勸めたい。ドイツの哲學者でも劃期的な仕事をした人は、英佛の影響を受けてゐるものが多く、カントがさうであつたし、近くはフッサールがさうであつて、彼の現象學にはデカルトやヒュームの影響が認められる。その場合、入門的な書物としてさしあたりベルグソンの『形而上學入門』とかジェームズの『プラグマティズム(實用主義)』の如きを勸めたい。フランスとかイギリスとかアメリカとかの哲學の眞の意味は、日本では專門家の間でもまだ十分に廣く發見されてゐないのではないかと思ふ。尤も、どこのものであるにせよ、外國の模倣が問題であるのでないことは云ふまでもないことである。

       五

 哲學を學んでゆくのに、自分に立脚すべきことを私はいつた。それはただ單にいはゆる瞑想に耽ることではない。私のいひたいのは先づむしろもつと具體的に、諸君がもし自然科學の學徒であるならその自然科學を、またもし社會科學の學徒であるならその社會科學を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史學を、或ひはもし藝術の愛好者であるならその藝術を手懸りにして、そこに出會ふ問題を捉へて、哲學を勉強してゆくことである。プラトンはその門に入る者に數學の知識を要求したと傳へられてゐるが、哲學の研究者はつねに特に科學に接觸することが大切である。古來哲學は科學と密接に結び附いて發達してきたのである。
 この場合科學と哲學との橋渡しをするものとして科學概論といふものが考へられるであらう。科學もその方法論的基礎を反省する場合、その體系的説明を企※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、459−9]する場合、つねに哲學的問題に突き當る。そこで科學概論の書物も立場の異るに從つて内容を異にするのは當然である。いま立場の相違は別にして、先づどういふものを讀めばよいかと尋ねられるなら、少し古いにしても、英語の讀める人にはピーアスンの『科學の文法』を勸めたい。日本のものでは田邊元先生の『科學概論』が知られてゐる。この方面における石原純先生の功績は大きく、忘れられないものである。また文化科學の方面ではディルタイの『精神科學概論』、歴史の方面ではドゥロイゼンの『史學綱要』といふ風に、いろいろ擧げることができるであらう。リッケルトの『文化科學と自然科學』は、ともかく明晰で、最初に讀んでみるに適してゐる。
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