ものもなく、絶對に惡いといひ得るものもない。或る人にとつては良書であるものも、他の人にとつては惡書であり得る。全く役に立たぬやうに見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであらう。讀書の樂しみは、このやうに發見的であることによつて高まるのである。
四
哲學の書物は難解であると一般にいはれてゐる。この批評には著作家の深く反省しなければならぬ理由もあるのであるが、讀者として考へねばならぬことは、哲學も學問である以上、頭からわかる筈のものでなく、幾年かの修業が必要であるといふことである。そこには傳統的に用ゐられてゐる術語があり、また自分の思想を他と區別して適切に或ひは嚴密に表現するために新しい言葉を作る必要もあるのである。しかし哲學は學問ではあるが、フィヒテがその人の哲學はその人の人格であるといつたやうに、個性的なところがあることに注意しなければならぬ。從つて哲學を學ぶ上にも、自分に合はないものを取ると、理解することが困難であるに反し、自分に合ふものを選ぶと、入り易く、進むのも速いといふことがある。すべての哲學は普遍性を目差してゐるにしても、そこになほ一定の類型的差別が存在するのであるから、自分に合ふものを見出すやうに心掛けるのが好い。その意味ですでに研究は發見的でなければならぬ。流行を顧みるといふことは時代を知り、自分を環境のうちに認識してゆくために必要なことであるけれども、流行にとらはれることなく、どこまでも自分に立脚して勉強することが大切である。そして先づ自分に合ふ一人の哲學者、或ひは一つの學派を勉強して、その考へ方を自分の物にし、それから次第に他に及ぶやうにするのが好くはないかと思ふ。最初から手當り次第に讀んでゐては、結局同じ處で足踏みしてゐることになつて進歩がない。他の立場に注意することはもちろん必要であるが、先づ一つの立場で自分を鍛へることが大切である。廣く見ることは哲學的である、同時に深く見ることが哲學的である。
ドイツは世界の哲學國といはれてをり、哲學を勉強するにはドイツのものを讀まねばならぬが、ドイツの哲學には傳統的に難解なものが多いといふことがある。英佛系統の哲學になると比較的やさしく讀めるであらう。やさしいから淺薄であると考へるのは間違つてゐる。ドイツの影響を最も受けてゐる現在の日本の哲學書を難解
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