である。
構成的であることを要求されてゐるところに自叙伝の困難がある。なぜなら構成的手法または技巧はたいていの場合自己の思想や感情のまともな表現を害ふものであるから。歴史的であり、従つてすぐれた「歴史的意識」が必要とされてゐると共に、それがほかならぬ「自己」の歴史であるべきところに、自叙伝の困難がある。それでイギリス史についての大作をなしたヒュームも自伝については最も簡単に記す道を選んだのである。
もつとも伝記、そして自叙伝といふ語はもつと広い意味に用ゐられることもできる。かくて例へばいふ、プラトンの対話篇アポロギアよりもすぐれたソクラテスの伝記はあるであらうか、と。またいふ、彼の懴悔録よりほかにアウグスティヌスの如何なる伝記も本質的に存し得ない。またいふ、キェルケゴールの日記は彼について存し得る唯一の伝記である。このやうにして日記と自叙伝とは一つの範疇に入れられる。そしてこれは或る意味でたしかに正しい、且つ深い見方を含んでゐる。だがその意味を哲学的に解明するための余白を私はもうもつてゐない。
最後にただひとこと。日記と自叙伝に対する興味が他人の私事の秘密をのぞかうといふ卑しい心
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