ソーの懴悔録でさへ甚だすぐれた自叙伝に数へられ得るかはすでに疑問である。これひとつには、自叙伝は他人に読まれることを予想して書かれ、そして他人の前で自己を正直に告白することは困難であるのによるともいはれよう。日記は少くともその本性上は他人に読ませようとするものではない。尤も日記が全然他人の存在を予想せずして書かれると考へるのは間違ひだ。人間の社会性ははるかに深く根差してをり、人間は最も内密な行為においても社会的に規定されてゐる。それはとにかく、自叙伝において専ら自己についてのみ語らうとしたものはたいてい失敗してをり、むしろ自己の環境について、環境と自己との交互作用について述べようとしたのが成功してゐる。
 これは日記と自叙伝との種類の区別を暗示するものでなければならぬ。両者はよく一緒に語られるけれども、実はその性質を異にしたものである。日記が抒情詩と同じ線にあつて反対の方向にあるいはゆる自照の文学に属するとすれば、自叙伝は叙事詩と同じ線の上にある歴史文学に属してゐる。一方を主観的性質の文学といふならば、他方は客観的性質の文学といはれよう。日記の性質が断片的であれば、自叙伝の性質は構成的
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