いふのは特に内的生もしくは「内的人間」のことである。さきに心理といつたものは純粋に心理的なものではなく、むしろもつと感性的ともいはるべき内的人間の意味に解されねばならぬ。外的人間や生活はどれほど断片的に見えてもそのじつ連続的であるに反して、内的人間や生活は深く理解すればするほど断片性をあらはにするやうに思はれる。これ、その面白さが主として、その「人間」の面白さにかかり、その上乗なるものは内的生活の描写にあるといはれる日記の根本的性格が断片性である所以である。生の断片性を最も明かに現はさせるものは、それ自身生の根本的規定に属するところの死の立場である。従つてすぐれた日記の多くは死の立場から書かれた生の記録である。例へば、アミエルの日記は最上の日記のひとつと認められてゐる。ところでトルストイは彼の愛読したこの日記について書いてゐる、彼は、「我々が凡て死を宣告されて、ただその執行を猶予されてゐるだけであることを痛感してゐる。そしてこれこそ、この書が非常に真摯で、厳粛で、有益なる所以である。」
よき自叙伝はよき日記よりも稀である。ゲーテの『詩と真実』は最上の一つといつてよいであらうが、有名ル
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