ものだ。
かくて日記についていへば、淡々としてただ事件を叙したのに案外面白いものがある。もちろん日記の本来の面白さは事件そのものにあるといふよりも、日常茶飯事を述べて筆者の主観などとても現はれさうにないところにその主観がおのづからにじみ出てゐるところにある。従つて上乗の日記は事件の叙述よりも心理の描写に求めらるべきであらう。しかし心理を十分に描いて完全なリアリストであることはまつたく容易のことではない。どうしてもあまくなりたがる。或ひは教訓的、道学者的となり易い。教訓的な実用的歴史は心理主義的であるのがつねである。ところで道学者といふものはまるであまい物の見方をしてゐることが多いと思ふ。日記は簡潔なのがふつう面白い。自分を多く語つて真実であることは困難であるからである。文豪といへども日記では筆を惜むのがつねだ。
断片性は日記の最も根本的な性格である。そのことは多くの日記がつれづれに、きれぎれに書かれるといふことによるのではなく、却つて日記そのものの最も内的な本質を現はすのである。即ち日記の断片性は根本的に「生の断片性」にもとづくのである。生の最も内的な規定は断片性である。ここに生と
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