る。生の哲学の方面で私が最もよく読んだのはジンメルであった。彼の哲学が文化哲学や歴史哲学に最も多く触れているためであった。
十
大正九年、大学を出ると、私は大学院に席をおいた。私の研究のテーマは歴史哲学であった。元来私は歴史は好きであったが、そのころちょうど日本の歴史学にも活発な動きが認められ、私の研究もそれに刺戟された。この動きは私の眼には二つの方向に現われた。その一つはいわゆる政治史から文化史への動きである。ドイツの史学界で盛んに闘わされた「政治史か文化史か」という議論は日本にも移され、歴史の新しい方向および方法として、政治史に対する文化史が主張された。中にも和辻哲郎氏の活動が私ども一般の青年には際立って見えた。ランプレヒトの『近代歴史学』が和辻氏によって翻訳されて現われた。それは私の卒業の前年の晩秋のことで、自動車事故のため松山病院というのに入院していた時、見舞に来て下さった田辺元先生からその新刊の本をいただいたので、私は今でもよく記憶している。和辻氏の著書『古寺巡礼』(大正八年)や『日本古代文化』(大正九年)は新鮮な印象によって広く読まれたが、私も興味深く感じた。しかしその頃京都大学で内田銀蔵先生が専門家として日本経済史その他の方面で立派な仕事をしていられたのにあまり注意しないでいたことを、私は後悔している。第二の動きは世界史への方向である。これは私には一層影響の多いものであった。特に坂口昴先生の『世界におけるギリシア文明の潮流』(大正六年)は私にとって忘れ難い書物である。先生の『概観世界史潮』が出たとき、私は『哲学研究』に紹介を書いたのを覚えている。大学院の学生として、先生のルネッサンス時代のイタリア史の講義を聴いたことも一つの思い出である。私はまた波多野精一先生から世界史的な見方について多くを学んだ。当時京大の文科には内田先生や坂口先生のほか、内藤湖南、原勝郎、三浦周行らの諸先生がいられて、まさに史学科の全盛時代であった。自分の専攻していた学科にもよるが、坂口先生以外、直接に就いて学ぶことをしなかったのは、惜しいことであったと思う。近来それら諸先生の著書を繙く機会のあるたびにその感を深くするのである。
その頃日本の哲学界においても次第に歴史哲学の問題が関心され始めていた。これは主としてヴィンデルバント、リッケルトらの新カント派の影響によるものである。したがって当時歴史哲学として問題にされたのは、主として歴史的認識に関する方法論、認識論の形式的論理的問題であって、ヘーゲルが考えたような世界史の哲学としての内容的な歴史哲学ではなかった。ディルタイの仕事の意味なども、まだ一般には十分に認識されてはいなかった。私も新カント派に導かれて歴史哲学の研究に入ったのである。ヴィンデルバントの『プレルーディエン』、リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』や『文化科学と自然科学』などから始めて、ジンメルの『歴史哲学の諸問題』等、またトレルチのやがて『歴史主義とその諸問題』に収められた論文を雑誌で探して、勉強した。特にトレルチのものが身になったように思う。その時分メーリスの『歴史哲学教科書』が評判になって、読みたいと思い、学校の研究室へ借りに行ったが、いつも誰かがすでに借り出していて見ることができず、だいぶんたってから、外国に注文しておいたのがやっと手に入って、読んでみるとそのつまらないのにがっかりしたことがある。評判の本が必ずしもよいとは限らない一つの例である。評判になるというにはいろいろ理由があるので、内容の質にばかりよらないのである。ディルタイの『精神科学概論』も読んでみたいと思いながら、絶版になっていて、なかなか見ることのできなかった本であった。後にドイツに留学した時、ベルリンで初めて本屋をのぞいたとき、この本の新版が出ているのを見つけて無性に嬉しくなり、ホテルの一室で読みふけったことを今思い出すのである。歴史家の書物では、その時分、ランプレヒト、ブルクハルト、ランケなどの諸著を繙いた。
日本における新カント主義は、日本の社会の現実の事情に相応して、特殊な性質のものであった。純粋な新カント派といい得るのは、経済学者で哲学者そして銀行家であった左右田喜一郎先生くらいであろう。そのほかなお桑木厳翼、朝永三十郎の両先生を純粋な新カント主義者に加え得るであろうか。一般には、新カント派を通じてカントに還ることによって同時にカント以後のいわゆるドイツ浪漫主義の哲学に結びつくという傾向が濃厚であった。言い換えると、新カント派の認識論的立場に止まらないで形而上学に行くという傾向が非常に根強く存在していたのである。これは、社会的に見ると、日本においては資本主義とか自由主義とかが純粋に発達しなかったといわれる事情に相応すると考えることができるであろう。ともかく私自身、歴史哲学の研究においても、新カント派から出発して、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ浪漫主義の哲学に進んでいった。シェリングの哲学には特別の親しみを感じていた。シュライエルマッヘルの『宗教的講演』や『独語録』は感激をもって読んだ。そこに青春の浪漫的心情の満足を求めようとしたということもあったであろう。
しかしその頃、私が学園で平和な生活を送っている間に、外の社会では大きな変動が始まっていた。あの第一次世界戦争を機会として日本の資本主義は著しい発展を遂げたが、私の大学を卒業した大正九年は、それが未曽有の大恐慌に見舞われた年として記憶される年である。このような変化に応じて思想界にも種々新しい現象が現われた。大正七年の末、東大には新人会という団体が出来た。『改造』――すでにこの名が当時の社会にとって象徴的である――が創刊されたのは大正八年のことであったと思う。同じ年にまた長谷川如是閑、大山郁夫氏らの『我等』が創刊されている。主として『中央公論』によった吉野作造博士の活動が注目された。これらの雑誌は私も毎月見ていたので、ある大きな波の動きが私にもひしひし感じられた。京都はまだ比較的静かであったが、『貧乏物語』で有名になられた河上肇博士が次第に学生たちの注意を集めていた。
このような動きに対して私は無関心ではなかったが、その中に入ってゆく気は生じなかった。また一灯園や「新しい村」の運動にも十分に興味がもてなかった。私はなお数年間、いわば嵐の前の静かな時を過したのである。当時私は古典派ないし教養派であり、ギリシア悲劇などしきりに読んでいた。グロートの『ギリシア史』を繙き、ブルクハルトの『イタリア文芸復興期の文化』を読み、ダンテとかリオナルド・ダ・ヴィンチとかに心を惹かれていた。そういう点で私は林達夫と最もうまが合った。京都時代を通じて文学書のうち私の最も熱心に読んだのは詩であったであろう。その頃有島武郎氏らの影響でホイットマンが流行していたが『草の葉』は私にも忘れられない詩集である。ヴェルレーヌ、ボードレール、ヴェルアーランなど、ゲーテやハイネなど、みな好きであったが、私の特に愛したのはジャムであった。日本の詩人では、白樺派の影響もあったであろう。千家元麿が好きであった。先だって東北へ旅行した時、改造文庫の『千家元麿詩集』を車中に携《たずさ》え「車の音」などという詩を読んで、あの頃のことを懐しく想い起した。宗教書はいつも何か読んでいたが、当時最も深い感銘を受けたのは、フランチェスコの『小さき花』である、ヨルゲンセンのフランチェスコ伝を訳した久保正夫氏――天随氏の令弟――が東京から京都の大学院へ移って来て、私たちの仲間に加わったが、その久保氏もすでに亡き人である。
大学を卒業すると同時に私は下鴨から北白川に下宿を変えた。その北白川の下宿に、その頃『改造』の特派員として京都に滞在していた浜本浩氏がよく訪ねて来た。雑誌に原稿を書けということであったらしかったが、私は貧乏をしていたけれども、そのような気持はなく、浜本氏も強いて主張しなかった。原稿を書いて銭にするというような考えは私にはなかったが、これは私ばかりでなく、あの頃の学徒はたいていそうであったので、近頃とは世の中も青年学徒の考え方もよほど違っていた。北白川の下宿に訪ねて来た人で忘れられないのは三土興三――忠造氏の令息――である。三土は非常な秀才で、人間としてもなかなか変っていて、私はその将来の畏《おそ》るべきことを感じた。その三土が後に大村書店から出た『講座』という雑誌にキェルケゴール論を書いたきりで自殺してしまったのは惜しいことであった。
すでにいったごとく、東京では新しい時代が活発に動いていたが、京都はまだどこかのんびりしたところがあった。ベートーヴェン通をもって任じていた久保氏が来てから、私たちの仲間では音楽を語ることが盛んになった。日高第四郎君なども非常なベートーヴェン崇拝者であった。そうした影響で、私はロマン・ローランの『ベートーヴェン』を読んでこの作家に親しむようになり、その『ミケランジェロ』や『トルストイ』を読み、さらに『ジャン・クリストフ』に手をつけた。ベートーヴェンで思い出すのは、ハイデルベルクの初めの下宿の主婦がドイツ語の勉強のために紹介してくれたドクトル――その名は忘れてしまった――がまたベートーヴェン研究の専門家で、ドイツ語の稽古にベートーヴェンの文章を使用するという、いささか無法なことをするほどベートーヴェンに熱中していたことである。しかしそのおかげで買ったベートーヴェンの手紙や文章、同時代人の記録を編輯したアルベルト・ライツマンの二巻の『ベートーヴェン』は、今も私は愛蔵している。ベルリオーズの書簡なども、久保氏の勧めで当時面白く読んだものである。久保氏は私たちの仲間で博識家として知られていたが、私がフランスの書物を多く読むようになったのは、深田康算先生とこの久保氏との影響であった。あの頃読んだもので特に思い出すのはポール・グゼルの録したロダンの言葉である。後に叢文閣から高村光太郎氏の編訳で『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』が出た時、私は早速求めたが、当時を思い出したためである。フロベールの書簡は、深田先生が、お訪ねすると、いつも面白いと話されるので、私も読んでみたが、なるほど面白かった。深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。その下宿は知らずしてアナトール・フランスの家の近くにあったが、ちょうど私のパリにいた時に彼は死んで、私は安倍能成氏と一緒にその葬式に行った。何かの因縁というものであろうか。そういうわけで、今は亡き深田先生のことを思い出す場合、アナトール・フランスを連想することが多いのである。
私の生涯にもやがて新しい変化が来た。学校を出てから二年間、大谷大学、ついでまた竜谷大学で哲学の講師をしていた私は、外国へ旅立ったのである。
十一
外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。幸いなことに――この言葉はここでは少し妙な意味をもっている――私はまた当時思う存分に本を買うことができた。ドイツにおけるあの歴史的なインフレーションのおかげで私たちは思いがけなく一時千万長者の経験をすることができたのである。先日も私はラテナウの『現代の批判』という本を読みながら、初めてドイツに入った日のことを想い起した。マルセーユからスイスを通り、途中ジュネーヴを見物して、ドイツに入ったその日、私たちは汽車の中で見た新聞によってラテナウが暗殺されたことを知ったのである。私たちというのは船の中で知り合った四、五人の仲間で、その中にはブルーノ・タウト氏の弟子となった
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