若い建築家上野伊三郎がいた。(上野の名は岩波新書の『日本美の再発見』におけるタウト氏の文章の中に出てくるから読者の中には記憶されている方もあろう)。今手許にあるヘルデルの百科辞書を開いてみると、ラテナウは一九二二年六月二四日ベルリンで「ユダヤ人並びに[#ここから横組み]“〔Erfu:llungspolitiker〕”[#ここで横組み終わり](ヴェルサイユ条約履行主義の政治家という意味)として国民社会主義の行動派によって暗殺された」とある。ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後にはすでに英貨一ポンドが千マルク以上になった。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、ついには一兆マルクになるというような有様で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換えるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をくれるのでマッペ(鞄)を持ってゆかねばならないというような状態であった。ハイデルベルク大学の前にワイスという本屋がある。講義を聴いての帰り、私はよく羽仁五郎と一緒にその本屋に寄って本を漁った。それは私ども外国人にとっては天国の時代であったが、逆にドイツ人自身にとっては地獄の時代であったのである。その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなったのは羽仁であったが、私と同時にあるいは前後して、ハイデルベルクにいて知り合った人々には、大内兵衛、北※[#「日+令」、第3水準1−85−18]吉、糸井靖之(氏はついにハイデルベルクで亡くなった)、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正厳、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。
私がハイデルベルクに行ったのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケルト教授に就いてさらに勉強するためであった。リッケルト教授はハイデルベルクの哲学を代表し、その講義はかつてヘーゲルが、クーノー・フィッシェルが、ヴィンデルバントが講義したことがあるという由緒のある薄暗い教室で行なわれた。――リッケルトに『ドイツ哲学におけるハイデルベルクの伝統』(一九三一年)という講演の出版されたものがある。――リッケルト教授には自分の家を離れると不安を感じるという一種の神経性の病気――学生たちはたしか[#ここから横組み]“Platzangst”[#ここで横組み終わり]と称していた――があるということで、大学へはいつも夫人と書生のようにしていたアウグスト・ファウスト氏とが附き添って馬車で来られた。私は教授の著書はすでに全部読んでいたので、その講義からはあまり新しいものは得られなかったが、この老教授の風貌に接することは哲学というものの伝統に接することのように思われて楽しかった。リッケルト教授のゼミナールは自宅で行なわれた。私はそのゼミナールで左右田喜一郎先生のリッケルト批評について報告したが、教授も左右田先生のことはよく記憶しておられたので、嬉しそうであった。タイプライターで打ってもらっておいたその報告を今は失ってしまったのは残念なことに思う。リッケルト教授のゼミナールにはいつもマックス・ウェーベル夫人が出席していられたが、その時のゼミナールの台本として用いられたのは、ちょうど新たに出版されたウェーベルの『科学論論集』であった。
ハイデルベルクにいた一年あまりの間に私が最もよく勉強したのはマックス・ウェーベルとエーミル・ラスクとであった。ラスクの弟子でその著作集の編纂者であり、後には日本へ来て東北大学で教鞭を取り、『日本の弓術』という本を土産にして今はドイツに帰っているオイゲン・ヘリィゲル氏から私はラスクの哲学を学んだ。私がハイデルベルクにいた時、氏は初めて講師となって教壇に立ったが、前の大戦――この戦争においてラスクは斃《たお》れたのである――に従軍したという氏の顔には深い陰影があった。私はヘリィゲル氏のゼミナールでボルツァーノについて報告した。この報告はやがて筆を加えて『思想』に発表した。その時分ボルツァーノの本は絶版になっていて手に入らなかったので、私はリッケルト教授の宅に保管されていたラスクの文庫からその本を借り出して勉強したことを覚えている。ヘリィゲル氏はその頃ハイデルベルクにいた哲学研究の日本人留学生の中心であった。氏を中心として大峡氏や北氏の下宿で読書会が開かれていたが、私もつねに出席した。かようにしてヘリィゲル氏に読んでもらった本の中に、ヘルデルリンの『ヒュペリオン』がある。ヘルデルリンはあの大戦後ドイツの青年たちの間に非常な勢いで流行していたのである。しかし私が当時彼らの精神的雰囲気を作っていたヘルデルリンを初め、ニーチェ、キェルケゴール、ドストイェフスキーなどに深い共感をもって読みふけるようになったのは、マールブルク大学に移って、ハイデッゲル教授について学ぶようになってからのことである。ハイデッゲルの哲学はそのような「戦後不安」の表現であった。その後ハイデッゲルは、ヘルデルリンに基づいて文学を論じている(『ヘルデルリンと詩の本質』一九三六年)。
ハイデルベルクにいた頃、私は日本を出てまだ間もないことで、京都以来の論理主義を離れず、カントやゲーテのドイツ以外のドイツを深く理解することができなかった。ハイデルベルクにはリッケルト教授と並んでヤスペルス教授がいて、ニーチェやキェルケゴールを講義していたが、私は二、三度出席してみただけであった。リッケルトがヤスペルスなどを批判している『生の哲学』(第二版一九二二年)を読んで別に共鳴したわけでもなかったが、ヤスペルスの『世界観の心理学』(第二版一九二二年)を読んでもその面白さは分らなかった。ヤスペルスの哲学の面白さを教えられたのも、やはりマールブルクへ行ってからのことである。要するに私のハイデルベルク時代は哲学的には京都時代の延長であった。私の集めた本にも論理学や方法論に関するものが多かった。
ハイデルベルクの教授でその講義を聴いたのは、リッケルトのほかにエルンスト・ホフマン教授である。哲学以外では、グンドルフの講義に数回出てみたことがある。ホフマン教授はディールスの弟子で、プラトン研究家として知られていた。私はホフマン教授の論文を訳して『思想』に載せたことがある。当時ドイツのインテリゲンチャはインフレーションのために生活が窮迫していたので、いくらかでも原稿料が入れば宜かろうと思って、私はその論文を教授に依頼したのであった。そんな状態であったので若いドクトル連中は皆喜んで日本人のために個人教授をした。ヘリィゲル氏の場合もそうであったが、同じように私が本を一緒に読んでもらった人に、後にやはり日本へ来て大阪高等学校で教鞭をとっているシンチンゲル氏がいる。氏はカッシーレルの所からハイデルベルクに移ってきたということであったが、たしかホフマン教授の紹介で、私はプラトンを読んでもらった。さらにヘーゲル全集を出してその名が広く知られるようになったヘルマン・グロックネル氏がある。氏はその頃リッケルト教授のところに下宿していたようであった。私は羽仁と一緒に氏からヘーゲルの『精神現象学』を読んでもらった。やはり羽仁と一緒に講義をしてもらった人にカール・マンハイム氏がある。マンハイム氏は後に日本へ来て東大の経済学部で教えたことのあるレーデレル教授の仕事を手伝っていた。この人がやがて『イデオロギーとウトピー』という著述によって知識社会学の方面において有名になった。私はこの人から初めてマックス・シェーレルの知識社会学の話を聞いたのであるが、当時その重要性を理解することができなかった。マンハイム氏などの仕事に私が興味をもつようになったのは日本へ帰って来てからのことである。あのドイツにおけるユダヤ人の追放の事件を初めて知った時、私はまっさきに思い起したのはマンハイム氏のことであった。そのほか私が本を読んでもらった人に、そのとき『現象学と宗教』という論文で講師の地位を得たウィンクレル氏がある。氏はウォベルミンの弟子であった。
このようにして私たちは若い学者をいわば家庭教師にして勉強することができた。これも全くインフレーションのおかげであった。ドイツ人の不幸は私ども留学生の幸福であった。今日わが国においてインフレーションの危険の語られるのを聞くたびに、私はあの頃のことを考え、当時のドイツのインテリゲンチャの表情をまざまざと思い浮べるのである。
十二
私の書斎には今マールブルクの町を描いた小さいエッチングが懸っている。これはそこの或る大学生が内職に作って売っていたのを求めてきたのであるが、当時のドイツの学生の多くがどのような経済状態にあったかを想い起させる材料である。ハイデルベルクで一年余を過した私は、マールブルクへ行った。あの関東大震災を大きく取扱った新聞記事に驚かされた時には、私はまだハイデルベルクにいた。その日阿部次郎氏を訪ねて、そのことについていろいろ話したのを覚えている。ハイデルベルクで知り合った誰彼に別れて、私はマールブルクへ行った。この小さい町で多分一人で暮らさねばならないだろうと思って出かけたが、ここでも私は日本から来た留学生の誰彼を見出した。当時はそのようにドイツのたいていの大学町には日本人留学生が多数にいたのである。マールブルクで知った人々には、大谷大学の鈴木弘氏、立正大学の守屋貫教氏、九州大学の四宮兼之氏、今は文部省にいる長屋喜一君があり、山下徳治君が来た。
その頃マールブルクへ行った人々は、哲学の方面ではニコライ・ハルトマンとハイデッゲル、宗教学の方面ではオットーを目差していた。守屋氏や鈴木氏は『聖なるもの』の著者として世界的に有名になったオットー教授を中心としていられたようであり、四宮氏や長屋君はハルトマン教授を目的としていられたようであり、私自身はハイデッゲル教授を目標としていた。というのは、ちょうど私がマールブルクへ行った学期に、ハイデッゲル教授はフライブルクからマールブルクへ招聘されたので、私は主として氏に就いて学ぶためにハイデルベルクから転学したのであった。教育学の研究を目的としていた山下君はナトルプ教授やイェンシュ教授に就いていた。私はナトルプの著書は京都にいた頃いくつか読んで敬意を払っていたが、その講義には山下君に誘われて二、三度出てみたきりであった。その時の講義はやがて『実践哲学講義』として出版されたものと同じ内容であったように記憶する。ナトルプ教授の蔵書が成城高等学校に所蔵されるようになったのは山下君の斡旋によるものである。私が大切にしているデカルトの肖像も、もとナトルプ教授に属していたもので、ある関係から私の手に渡ったものである。
マールブルクに落着くと、私はすぐハイデッゲル教授を訪ねた。その時のことについては、かつて「ハイデッゲル教授の思い出」という短文の中で書いておいた。この訪問において私はアリストテレスの研究を勧められ、ガダマルというドクトルを紹介された。こうして私はガダマル氏の家に通ってアリストテレスを読んでもらうことになった。それは『形面上学[#「形面上学」はママ]』と『ニコマコス倫理学』との中からであった。ハイデッゲル教授のゼミナールでもアリストテレスの『自然学』がテキストに用いられた。なおそのゼミナールで使われた他の書物はフッサールの『論理学研究』であった。教授はフッサールの著書ではこの書物を『純粋現象学及び現象学的哲学考案』よりも重んじていられたようである。これは、一つの思想をその根源的な発現における関心から解釈しようとする教授の哲学的方法にもとづくものである。そんなわけで、私はまた教授の紹介でレーヴィット氏の家に通って、フッサールの『論理学研究』を講釈してもらった。レーヴィット氏は、後にマールブルク大学の講師となったが、ユダヤ人であるというので危険を感じ、日本に来て東北大学で教えていたが、ロックフェラー財団の援助によって、日米間の緊張を予感しつつこの春アメリカへ渡ってしまった。氏はそれ以前にやはり
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