うな時代であったので、戦争のためにドイツの本が来なくなると日本の学問は衰えるというような論も行なわれた。そのことを公然と述べた人があってだいぶん問題になったこともあったが、たいていの学者は心中実際にそのように考えているのではなかったかと思う。ともかく第一次世界戦争が私に直接の影響として感じられたのは、ドイツ語の本が手に入らないということくらいであった。現在では全く想像もできないようなことである。
八
大学生活の三年間、私は下鴨の同じ一つの下宿で暮らした。それは蓼倉町で、その頃はまだ附近に余り家が建っていなかったので、室を出るとすぐ前に比叡山を見ることができた。九月のなかば初めてその下宿に行ったとき、葉鶏頭の鮮かな色がきわめて印象的であったが、その家では毎年美しい葉鶏頭を作っていた。私はその下宿を「雁来紅の家」と自分ひとりで呼んでいた。今でも葉鶏頭を見ると、八田といったその下宿のことが思い出されるのである。同じ年京都の哲学科に入ったのは私と広島高等師範を出た林礼二郎(旧姓森川)との二人であったが、やがて森川も私の下宿に移ってきて、私と同様卒業するまでそこに留まった。私たちはたいてい一緒に加茂の森を抜けて学校へ通った。
大学時代に読んだもので最も大きな影響を受けたのはいうまでもなく西田幾多郎先生の著作である。ちょうど私の入学した年の秋『自覚における直観と反省』が本になって出た。続いて先生は『哲学研究』誌上に多くの論文を発表してゆかれた。私は先生の書かれたものを読むと共に、その中に引用されている本をできるだけ自分で読んでみるという勉強の仕方をとった。あの時分の先生の論文の中には実にいろいろの書物が出てくるのであるが、私の哲学勉強もおのずから多方面にわたった。先生は種々の哲学を紹介されたが、ひとたび先生の手で紹介されると、どの本もみな面白そうに思われ、読んでみたい気持を起させた。かようにして私は、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学を初め、バーデン学派やマールブルク学派の新カント哲学、マイノングの対象論、ブレンターノの心理学、ロッツェの論理学、等々、いろいろのものを読んでみることに心がけた。アウグスティヌスやライプニッツの名も挙げておきたい。何を最も多く読んだかときかれるなら、私は二年生の時のリポートにライプニッツについて書き、卒業論文は『批判哲学と歴史哲学』という題でカントについて書いたので、この二人のものは比較的多く読んだといえるであろう。しかし何を特別に勉強したというほどのことはなく、ただ西田先生の後を追うていろいろの本を読んだというのが、大学時代三年間における私のおもな勉強であった。
かようにして読んだ本のうちでも何か深く影響されたものがあるとすれば、それは新カント派の哲学であった。しかしそれも、意識的にではなく、むしろ知らず識らずそういうことになっていたのである。ある時の哲学会の例会で、私どもの先輩であった土田杏村氏が話をされた後で、私は質問をした。何の問題であったか記憶していないが、土田氏と私との議論になってしまい、なかなか終りそうになかった。そこで土田氏が、会に出ていられた西田先生を顧みて「先生、どうですか」と尋ねると、先生は「君の考えは現象学のようなもので、三木の考えは新カント派のようなもので、どちらがよいか、むつかしい問題だ」という意味のことを答えられた。先生からそう言われて初めて私は自分の考えが新カント派的であることに気づいて、いつのまにか深くその影響を受けていたのにむしろ驚いたことである。
私がかように新カント派の影響を受けたのは、高等学校の時の読書会でヴィンデルバントを読んだことが素地をなしていたのであろうが、その時代のわが国の哲学の一般的傾向にも関係があったであろう。すでにいったごとく私が大学に入学した大正六年は、西田先生の画期的な書物『自覚における直観と反省』の現われた年であるが、やはりその年に桑木厳翼先生の名著『カントと現代の哲学』が出ている。これはカント哲学への入門書として私の熱心に読んだ本であった。その前年には朝永三十郎先生の名著『近世における「我」の自覚史』が出ている。私は一高にいてこの本を感激をもって読んだのであるが、その立場は新カント派である。そしてやはり大正六年の暮にはリッケルトの弟子であった左右田喜一郎先生の名著『経済哲学の諸問題』が出ている。これも私には忘れられない本である。左右田博士の影響によって、その頃からわが国の若い社会科学者、特に経済学者の間で哲学が流行し、誰もヴィンデルバント、リッケルトの名を口にするようになった。日本における新カント派の全盛時代であった。
私は左右田先生の本を読んで、哲学が広く他の諸科学に交渉をもたねばならぬことを考えるようになった。経済学者などの書くものに私が注意を向けるようになったのはその時以来のことである。当時そうした本で最も印象に残っているのは、小樽高等商業学校の教授で、その才を惜しまれつつ若くして亡くなった大西猪之介氏の『囚われたる経済学』である。後に左右田博士の斡旋で『大西猪之介経済学全集』が出た時、私も求めて所蔵している。左右田先生は、私が大学院にいた頃、京都に講義に来られたことがあるが、その時初めて先生にお目にかかり、その学問に対する純粋な愛に深く打たれた。その後私はドイツに留学した時、リッケルト教授のゼミナールに出席し、左右田博士のリッケルト批評について報告したことがあるが、リッケルト教授も左右田博士も共に喜ばれた。そんなことから左右田先生とつながりができ、先生が亡くなられて後にも、先生の愛弟子であった本多謙三君と親しくしていたが、その本多君も前途を嘱目されつつ先年亡くなってしまったのは惜しいことである。ところがまた私は、やはり先生の愛弟子《まなでし》である杉村広蔵君の隣に住み、親しく交るようになったというのも、左右田先生につながる因縁であろうか。
九
京都大学の諸先生からはいずれもいろいろ影響を受けたが、中にも私が入学したのと同じ年に波多野精一先生が東京から宗教学の教授になって来られたのは、私にとって仕合わせなことであった。先生の名は『西洋哲学史要』、『スピノザ研究』、『キリスト教の起源』などの著書を通じて知っていたが、その頃先生の思想も新カント派に近かったようである。先生は最もプロフェッサーらしいプロフェッサーであった。私は先生から歴史研究の重要なことについて深く教えられた。また西洋哲学を勉強するにはそのいわば永遠の源泉であるギリシア哲学とキリスト教とをぜひ研究しなければならぬということを諭《さと》されたのも先生であった。その影響で私はギリシア語の勉強を始め、辞書と首引きでプラトンを読んだり、またキリスト教の文献に注意するようになった。これまでの自分を振返ってみると、私は考え方の上では西田先生の影響を最も強く受け、研究の方向においては波多野先生の影響を最も多く受けていることになるように思う。私の勉強が歴史哲学を中心とするようになったこと、あるいはアリストテレスなどの研究に興味をもつようになったこと、またパスカルなどについて書くようになったことは、その遠い原因は波多野先生の感化にあるといえるであろう。
二年生の時、田辺元先生が東北から東京へ来られたことも、私の成長にとって重要なことである。ドイツ観念論の哲学について理解を深めることができたのは先生のおかげである。私は先生に就いて自分の考えを鍛えていただいた。今は亡き深田康算先生からはさらに別の影響を受けた。深田先生はケーベル博士の伝統を最も純粋に継がれた方で、私は先生において真の教養人に接することができた。その頃先生は特にフランスのものに興味を持たれていたらしく、お訪ねすると、テーヌとかアナトール・フランスとかジョルジュ・サンドとか、フロベールとか、ブリュンティエールとか、いろいろフランス人の話が出るのがつねであった。その時分、私の読書の範囲は主としてドイツの哲学書であって、広くフランスのものにまで手が廻らなかったが、フランスの文学や思想に憧憬を感じ、外国に留学した時にもパリに行くことを考えたのは、深田先生の感化によることである。
私の青年時代は日本の文学や思想において自然主義に対する反動もしくは自然主義の克服としてヒューマニズムが現われた時代であった。私はその流れの中で成長したのである。このヒューマニズムというものの意味は広く、種々の形をとって現われた。そして私はそのすべてから多かれ少なかれ影響を受けた。
それは先ず教養という観念を作り出した。その方向において私は高等学校のとき阿部次郎氏の著書から影響されたが、大学時代になると、波多野先生や深田先生の講義、特にその談話とその人格から大きな感化を受けた。両先生のお宅へはしばしば伺ったが、いつも親しくくつろいでいろいろ話していただくことができたのは私の学生生活における楽しい思い出である。
次にこのヒューマニズムは一層宗教的な形をとって現われた。西田天香氏の一灯園の運動とか倉田百三氏の文学がそれである。私もその影響を受けたが、私にとってはその影響は一時的であった。
第三の方向は白樺派で、武者小路実篤氏の新しい村の運動がある。私の友人でやはり京都の哲学科に来ていた一高出身の谷川徹三、日高第四郎、学習院出身で美学を専攻していた園池公功らは白樺派の人々に接近していたので、私も誘われて、新しい村の講演会を聴きに行ったこともある。武者小路氏の文学は以前から好きで読んでいた。有島武郎氏がホイットマンをしきりに言われていたのもその頃で、有島氏はその時分京都の同志社大学にときどき来て講義をされていた。谷川らに誘われて有島氏の宿を訪ねたこともある。私も一時は有島氏の熱心な読者であった。やはり一高から来ていた小田秀人も白樺派に傾倒していた。有島氏に接近していた人に、さらに一高から来て京都の経済科にいた八木沢善次があった。その頃有島氏は次第に人道主義的社会主義に移りつつあったが、京都の経済科の河上肇博士はもとの伊藤証信氏の無我愛に熱中されたことがあるというが、その頃はまだ人道主義的社会主義を多く出なかったようである。いずれにしてもヒューマニストの関心が社会問題に移っていったのは注目すべきことであった。
第四に、このヒューマニズムの傾向は学究的な人々の間で「教養」という観念から「文化」という観念に変り「文化主義」などという言葉もできた。新カント派の価値哲学、文化哲学がその基礎になったのであって、桑木先生とか左右田先生とかがその代表者であった。その頃「文化住宅」とか「文化村」とかいう、大正時代の一つの象徴である安価な文化主義が、哲学者たちの意図とは別に、流行になっていた。
思想の方面においてはヒューマニズムの流れはさらに別の方向をとって存在していた。新カント派が全盛になる以前、広く流行したオイケン、ベルグソンの「生の哲学」がそれであったと見られるであろう。生の哲学の流れは新カント派が隆盛を極めてからもわが国には根強く存在していたのであって、西田先生の哲学などもそれに属するといい得るであろう。
私自身はその頃どちらかというと学究派であった。オイケン、ベルグソン時代にも私はその圏外に立っていた。しかし私は西田先生の影響を通じて生の哲学につながっていた。ベルグソンは学校の演習で西田先生から『創造的進化』を習ったのを初め、その著書を読んだが、オイケンのものはほとんど何も読まないでしまった。ベルグソンの面白さは近年になって分るようになったが、オイケンはその後もほとんど読まず、読み始めても中途でやめてしまった。一高から京都へ来た私の友人には、谷川徹三、林達夫、小田秀人など、文学派が多かった。もっとも林は少し違っていて、深田先生や波多野先生らの教養を理想としていたようであったが、谷川や小田は思想的にも生の哲学に属していて、私もある程度それに影響された。大学三年生の時、私は一年近くかなり熱心に詩を作ったことがあ
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