の頃で、有島氏はその時分京都の同志社大学にときどき来て講義をされていた。谷川らに誘われて有島氏の宿を訪ねたこともある。私も一時は有島氏の熱心な読者であった。やはり一高から来ていた小田秀人も白樺派に傾倒していた。有島氏に接近していた人に、さらに一高から来て京都の経済科にいた八木沢善次があった。その頃有島氏は次第に人道主義的社会主義に移りつつあったが、京都の経済科の河上肇博士はもとの伊藤証信氏の無我愛に熱中されたことがあるというが、その頃はまだ人道主義的社会主義を多く出なかったようである。いずれにしてもヒューマニストの関心が社会問題に移っていったのは注目すべきことであった。
第四に、このヒューマニズムの傾向は学究的な人々の間で「教養」という観念から「文化」という観念に変り「文化主義」などという言葉もできた。新カント派の価値哲学、文化哲学がその基礎になったのであって、桑木先生とか左右田先生とかがその代表者であった。その頃「文化住宅」とか「文化村」とかいう、大正時代の一つの象徴である安価な文化主義が、哲学者たちの意図とは別に、流行になっていた。
思想の方面においてはヒューマニズムの流れはさ
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