思うと、一方ではガンディなどが迎えられていた。また学生の間でも右翼と左翼との色彩がはっきり分れ、私どもでさえ外部からそれを見分けることができた。ハイデッゲル教授の哲学そのものもかような不安の一つの表現であると考えることができるであろう。教授の哲学はニーチェ、キェルケゴール、ヘルデルリンらの流行の雰囲気の中から生れたものであり、そこにそれが青年学生の間で非常な人気を集めた理由がある。レーヴィット氏もその時分デンマーク語を勉強して原典でキェルケゴールの研究を始めていた。ヤスペルスやマックス・シェーレルなどを読むことを私に勧めてくれたのも氏であった。氏はハイデッゲル教授と親しく、いわば教授の哲学の材料を材料のままでいろいろ見せてくれたのである。こういう教師というものは実に有難いものである。
十三
マールブルクはドイツの田舎の小さい大学町の一つの典型である。それは山の裾《すそ》から頂を開いて作られた町で、その裾にはラーン河が流れ、河の向うには丘が続き、森が開かれている。私はよくこの丘や森の中を散歩した。町にはほとんど観るものがなかった。劇場が一つあって、ときどき映画などを観せていたようであるが、私はついに行かないでしまった。町はいつも静かで、落着いていた。ここで暮らした一年間はまた私のこれまでの一生のうち最も静かな、落ち着いていた時期であった。予定した滞在の期限が切れても、私はなかなか去り難い思いであった。どうしようかと迷っていたとき、私の心の中に蘇ってきたのは、深田先生などによって与えられていたフランス文化に対する憧れである。マールブルクにフランス語の会話を教える婦人があるということを聞いて、パリへ出る準備のために、一か月ばかり通った。私のフランス語はほとんど独学であった。高等学校の時代、暁星で朝七時から八時までフランス語の講習をしているのを知って本郷の寄宿寮から通ったこともあるが、なにぶん八時から始まる学校の授業に対して無理をしなければならぬことなので、長くは続かなかった。独学でどうにか本だけは読めるようになったが、日常の会話にはさっぱり自信がなかったのである。
私はマールブルクからパリへ行くことに決めた。そのとき私の手もとにはアンドレ・ジードの小説が数冊あった。これはその年の春ウィーンに旅行したとき、偶然に買ってきたものである。その頃ウィーンには上野伊三郎がいて、しばらく滞在している間に、私はいつものように本屋を歩き廻ったが、先ず目にとまったのは、フランスの本を置いている店があるということであった。これはドイツでは見なかったことである。ウィーンはフランス文化の影響を多く受けていた。久しぶりでフランス書を見るのが懐しくて店へ入ってゆくと、ジードのものがたくさん置いてあるのが目についた。ドイツ書ではドストイェフスキーの独訳本の多いことが注意をひいた。考えてみると、その時分のオーストリアにおいてもまたいわゆる不安の文学が流行していたのである。私はその頃、恥しい話だが、アンドレ・ジードの何者であるかを知らなかった。ともかく彼の本がたくさん並べてあるところをみると、重要な流行作家に違いなかろうと考えて、その幾冊かを求めて鞄の中に入れた。ウィーンからの汽車の中で、私は初めて彼の『インモラリスト』を繙き、何か全く新しいものに接した気がした。マールブルクに帰ってきて、レーヴィット氏にその話をすると、この博識なドクトルはジードについていろいろ話してくれた。そのとき氏からドイツにおける最もすぐれたフランス研究家として教えられた名にエルンスト・クルチウスがある。クルチウスの新著の『バルザック』をぜひ読めと勧められたので、買って読んでみると、なるほど面白かった。その後さらにクルチウスの『新ヨーロッパにおけるフランス精神』という本を見る機会があったが、これもよい本であったように思う。
パリにいた小林市太郎君に下宿の世話を頼んでおいて、ケルンを通ってパリへ出たのは秋の初めであった。小林君は私と同様京都の哲学科の出身なのでかねて知っていたが、現在は大阪の美術館にいて、支那美術の研究を専門にしている。最初パリには長く滞在するつもりでなかった。すでに二か年半をドイツで過していたので、パリには三、四か月もいて、そろそろ帰国の仕度をしなければならないだろうと考えていた。それがとうとう一か年の滞在になってしまった。大都会というものは孤独なものである。孤独を求めるなら大都会のまんなかである。パリの街ではいつも多くの日本人を見た。しかし私が親しくしたのは小林君くらいのもので、それも下宿が離れていたため頻繁には会わなかった。そのほかパリで初めて知り合った友人といえば芹沢光治良君くらいのものである。もっともパリはヨーロッパへ行った者が一度は訪ねる所なので
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