ロックフェラー基金によってイタリアへ行っていたことがある。レーヴィット氏と同じ家に住んでいた青年マルセール君というのがあった。どこで覚えてきたのか、碁を知っていて、私にたびたび相手を命じた。よい若者であった。マルセール君もやはり今はニューヨークにいるそうである。今日の国際情勢を眺めて、私はよくこの二人の運命について考えさせられるのである。
 ハイデッゲル教授は、その講義の時にも、その演習の時間においても、哲学の古典的著作を抱えて来て、そのテキストのある部分を解釈するというのがつねであった。それにデカルトがあり、カントがあり、アウグスティヌスやトマスなどがあった。私の聴いた講義の中では特にデカルトの『省察録』がよく取扱われた。そのために私もこの本を精読することができた。アウグスティヌスの面白さは西田先生からきかされていたが、ハイデッゲル教授の講義によって興味をそそられ、私もその哲学的論文をラテン語の辞書を頼りに読んでいた。それを知って、下宿していた家の主人が私のためにアウグスティヌスの『告白録』を一緒に読んでくれた。私は牧師の家に下宿していたのである。ティンメという人で、二、三の著書もあり、ルーマニアあたりまで講習に出掛けるということであった。どういうものか私は宗教に縁があって、ハイデルベルクでは石原謙氏の後を継いで、レンメという老教授の家に下宿していた。アウグスティヌスを少し深く勉強してみたいと思って、その頃パリに移っていられた小尾範治氏に頼んで、ミーニュ版の中の『三位一体論』などを送ってもらったこともある。考えてみると、マールブルクにいた間は、意識してやったことではないが、これまで私の最も多くキリスト教的著作を繙いた時であった。ティンメ一家はハイレル一家と親しく、しぜんハイレル教授の話の出るのを聞くことが多く、私もすでに京都にいた時波多野先生から教授の著書について教えられていたので、教授の『カトリチスムス』とか『祈祷』とかを読んでみた。ハイデッゲル[#「ハイデッゲル」は底本では「ハイデッケル」]教授の時間に、学生にまじっていつも講義を聴いている脚の悪い一人の紳士があった。「あれがブルトマンだ」と学生の一人が私に教えてくれた。ブルトマン教授は思想的には弁証法的神学とつながりをもっているが、ハイデッゲルの哲学にはまたこのものに通ずるところがある。びっこをひきながら教室へ入って来て、熱心に同僚の講義を聴いているブルトマン教授の面影が今の私の眼に浮かんでくる。その後出版された教授の『イエス』という書物を私は深い感銘をもって読んだ。事実、これは小さな本ではあるが、すぐれたものであると思う。ハイデッゲル教授やレーヴィット氏の話をきいて、私は弁証法的神学に興味をもつようになり、バルトの『ロマ書』とか『神の言葉と神学』などを繙くようになった。もちろん、オットー教授の『聖なるもの』も読んでみた。その頃教授はやがて『西・東神秘主義』となって現われたような問題を考えておられ、仏教に関心をもっておられたということにもよるのであろう。日本の留学生が好きで、自宅に招いてお茶の会を開かれたりした。私はまたときどきオットー教授に誘われて、ラーン河の向うの小高い丘を一緒に散歩したことがある。
 哲学の方面では、ハイデッゲル教授のほかに、ニコライ・ハルトマン教授の講義に出席した。教授もアリストテレスに興味をもっておられて、一度お訪ねした時、しきりにその話をされた。私が出たゼミナールで使われたのはカントの『純粋理性批判』とヘーゲルの『論理学』とであった。教授の『認識の形而上学』は、主観主義の哲学から入って、ラスクの研究によって次第に客観主義に傾きつつあった時分の私には、非常に新鮮で面白く感じられたが、ハイデッゲルの影響を強く受けるようになってから、ハルトマン教授の立場にはあまり興味が持てなくなった。マールブルクでは私はほとんど純粋にハイデッゲル教授の影響を受け容れたといってよいであろう。しかしその後ハルトマンの『倫理学』が出た時、私はこれを読んで再び教授の思想に対する興味を取り戻すことができた。
 マールブルクにいる間、そしてその後もときどき文通によって、私の読書を指導してくれたのはレーヴィット氏であった。私は氏によって単に哲学のみでなく、広くドイツ精神史の中に導き入れられた。ディルタイとか、さらにさかのぼってシュレーゲルやフンボルトなどに対して私の眼を開いてくれたのはレーヴィット氏であった。特に氏によって私は当時の多くのドイツの青年をとらえていたあの不安の哲学とか不安の文学の中へ連れて行かれた。私もニーチェやキェルケゴールなどを愛読するようになり、ことにドストイェフスキーの小説を耽読した。その頃のドイツは全く精神的不安の時期であった。ヘルデルリンが流行するかと
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