カール・マンハイム氏がある。マンハイム氏は後に日本へ来て東大の経済学部で教えたことのあるレーデレル教授の仕事を手伝っていた。この人がやがて『イデオロギーとウトピー』という著述によって知識社会学の方面において有名になった。私はこの人から初めてマックス・シェーレルの知識社会学の話を聞いたのであるが、当時その重要性を理解することができなかった。マンハイム氏などの仕事に私が興味をもつようになったのは日本へ帰って来てからのことである。あのドイツにおけるユダヤ人の追放の事件を初めて知った時、私はまっさきに思い起したのはマンハイム氏のことであった。そのほか私が本を読んでもらった人に、そのとき『現象学と宗教』という論文で講師の地位を得たウィンクレル氏がある。氏はウォベルミンの弟子であった。
 このようにして私たちは若い学者をいわば家庭教師にして勉強することができた。これも全くインフレーションのおかげであった。ドイツ人の不幸は私ども留学生の幸福であった。今日わが国においてインフレーションの危険の語られるのを聞くたびに、私はあの頃のことを考え、当時のドイツのインテリゲンチャの表情をまざまざと思い浮べるのである。

      十二

 私の書斎には今マールブルクの町を描いた小さいエッチングが懸っている。これはそこの或る大学生が内職に作って売っていたのを求めてきたのであるが、当時のドイツの学生の多くがどのような経済状態にあったかを想い起させる材料である。ハイデルベルクで一年余を過した私は、マールブルクへ行った。あの関東大震災を大きく取扱った新聞記事に驚かされた時には、私はまだハイデルベルクにいた。その日阿部次郎氏を訪ねて、そのことについていろいろ話したのを覚えている。ハイデルベルクで知り合った誰彼に別れて、私はマールブルクへ行った。この小さい町で多分一人で暮らさねばならないだろうと思って出かけたが、ここでも私は日本から来た留学生の誰彼を見出した。当時はそのようにドイツのたいていの大学町には日本人留学生が多数にいたのである。マールブルクで知った人々には、大谷大学の鈴木弘氏、立正大学の守屋貫教氏、九州大学の四宮兼之氏、今は文部省にいる長屋喜一君があり、山下徳治君が来た。
 その頃マールブルクへ行った人々は、哲学の方面ではニコライ・ハルトマンとハイデッゲル、宗教学の方面ではオットーを目差していた。守屋氏や鈴木氏は『聖なるもの』の著者として世界的に有名になったオットー教授を中心としていられたようであり、四宮氏や長屋君はハルトマン教授を目的としていられたようであり、私自身はハイデッゲル教授を目標としていた。というのは、ちょうど私がマールブルクへ行った学期に、ハイデッゲル教授はフライブルクからマールブルクへ招聘されたので、私は主として氏に就いて学ぶためにハイデルベルクから転学したのであった。教育学の研究を目的としていた山下君はナトルプ教授やイェンシュ教授に就いていた。私はナトルプの著書は京都にいた頃いくつか読んで敬意を払っていたが、その講義には山下君に誘われて二、三度出てみたきりであった。その時の講義はやがて『実践哲学講義』として出版されたものと同じ内容であったように記憶する。ナトルプ教授の蔵書が成城高等学校に所蔵されるようになったのは山下君の斡旋によるものである。私が大切にしているデカルトの肖像も、もとナトルプ教授に属していたもので、ある関係から私の手に渡ったものである。
 マールブルクに落着くと、私はすぐハイデッゲル教授を訪ねた。その時のことについては、かつて「ハイデッゲル教授の思い出」という短文の中で書いておいた。この訪問において私はアリストテレスの研究を勧められ、ガダマルというドクトルを紹介された。こうして私はガダマル氏の家に通ってアリストテレスを読んでもらうことになった。それは『形面上学[#「形面上学」はママ]』と『ニコマコス倫理学』との中からであった。ハイデッゲル教授のゼミナールでもアリストテレスの『自然学』がテキストに用いられた。なおそのゼミナールで使われた他の書物はフッサールの『論理学研究』であった。教授はフッサールの著書ではこの書物を『純粋現象学及び現象学的哲学考案』よりも重んじていられたようである。これは、一つの思想をその根源的な発現における関心から解釈しようとする教授の哲学的方法にもとづくものである。そんなわけで、私はまた教授の紹介でレーヴィット氏の家に通って、フッサールの『論理学研究』を講釈してもらった。レーヴィット氏は、後にマールブルク大学の講師となったが、ユダヤ人であるというので危険を感じ、日本に来て東北大学で教えていたが、ロックフェラー財団の援助によって、日米間の緊張を予感しつつこの春アメリカへ渡ってしまった。氏はそれ以前にやはり
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