、偶然出会った人は多く、斎藤茂吉氏とか板垣鷹穂君などの名が今記憶に蘇ってくる。エトワルの近くにあった私の下宿は一時、安倍能成氏や速水滉先生の下宿になったこともある。京城大学に法文学部が出来た頃で、そこの教授に任ぜられた人々が洋行した時代であったのである。私の下宿にいられた間、安倍さんはしきりにオイケンの『大思想家の人生観』の改訳をやっていられたことを思い出す。船の中で片付けるつもりであったのが出来なかったから、ということであった。
 初めは長く滞在するつもりでなかったので、私は今度は大学に席を置かなかった。パリ見物の傍ら、私は小学校の女の先生を頼んでフランス語の日用会話の勉強を続けた。耳の練習に少し自信ができたので、これも見物の一つのつもりでソルボンヌの公開講義に出掛けて、哲学者のブランシュヴィク教授を数回聴いたことがある。私がテーヌをしきりに読んだのはその頃のことである。「ほう、テーヌを読んでいるのか」と教えに来た女の先生に驚かれたものだ。どうして特にテーヌを読んだかというと、京都時代に主として勉強した歴史哲学の影響である。ハイデルベルクにいた時にも羽仁に会うとよくテーヌの話が出たように思う。またアナトール・フランスの小説が面白くてその頃しきりに読んだことは、すでに書いたとおりである。ジードにしても、アナトール・フランスにしても、フランスの作家の中で外国人好きのする作家であるといえないであろうか。作家のうちには本国においてよりも外国においてはるかに好まれる種類の人があるのである。パリの下宿でほかに私が愛読したものといえば、ルナンであったであろうか。
 そうしているうちに私はふとパスカルを手にした。パスカルのものは以前レクラム版の独訳で『パンセ』を読んだ記憶が残っているくらいであった。ところが今度はこの書は私を捉えて離さなかった。『パンセ』について考えているうちに、ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくるように感じた。そうだ、フランスのモラリストを研究してみようと私は思い立ち、先ずパスカルの全集、モンテーニュの『エセー』、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』等々を集め始めた。ヴィネの『十六、七世紀のモラリスト』を読んで、いろいろ刺戟を受けた。私の関心の中心はやはりパスカルであった。そうだ、パスカルについて書いてみようと私は思い立ったのである。マールブルクにおけるキェルケゴール、ニーチェ、ドストイェフスキー、バルト、アウグスティヌス、等々の読書が今は活きてくるように感じた。ストロウスキーの『パスカル』、ブトルーの『パスカル』等々の文献を集めて読み始めた。『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜ふけて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることもしばしばあった。原稿用紙を持っていなかったので、洋罫紙に向って私は先ず「パスカルにおける人間の分析」という論文を書いた。かようなものが哲学の論文として受取られるかどうかについて不安を感じながら、私はそれを『思想』に送った。そしてさらに続けて私のパスカル論を書いていった。こうして出来上ったのが『パスカルにおける人間の研究』であり、大正十五年に私の処女作として出版されるようになった。その中の最後の一章は、日本へ帰ってきてから京都で書いたものであるが、他の部分はパリの下宿で出来たものである。私の処女作出版は失敗であった。当時岩波書店の卸部にいた坂口栄君が後に私に話したところによると、あの時分岩波の本で、小売屋に出してあんなに多くの返品があった本はないということである。それは当然であった。私はもとより無名の書生であったし、パスカルといえば専門家を除き一般の読者においては中学校の数学の時間にパスカルの定理というものを習った記憶があるだけで、そのパスカルと『人間の研究』――こういう言葉も当時の読者には全く親しみのないものであったであろう――との間にどのような関係があるのか、理解できないことであった。そしてそれはまた当然であるのだ。パスカルというのはそのように不思議な存在なのである。もちろん、現在では事情が変っている。『パンセ』を初めパスカルのいくつかの作品が翻訳され、広く読まれている。私のパスカルもその後徐々に読者を見出すようになり、今も版を重ねている。出来不出来は別として、処女作の出版というものは著述家にとってつねに懐しい思い出である。
 パスカルやモンテーニュから入って、私はフランス哲学に対して次第に深い興味をもつようになった。それもさかのぼると、西田先生の著書や講義でメーヌ・ドゥ・ビランなどという、当時わが国ではあまり知られていなかった哲学者のことを知らされて、未知のものに対する憧れを感じたことに由来するであろう。私はいつも未知のものに対して憧れてきた
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