史哲学』という題でカントについて書いたので、この二人のものは比較的多く読んだといえるであろう。しかし何を特別に勉強したというほどのことはなく、ただ西田先生の後を追うていろいろの本を読んだというのが、大学時代三年間における私のおもな勉強であった。
かようにして読んだ本のうちでも何か深く影響されたものがあるとすれば、それは新カント派の哲学であった。しかしそれも、意識的にではなく、むしろ知らず識らずそういうことになっていたのである。ある時の哲学会の例会で、私どもの先輩であった土田杏村氏が話をされた後で、私は質問をした。何の問題であったか記憶していないが、土田氏と私との議論になってしまい、なかなか終りそうになかった。そこで土田氏が、会に出ていられた西田先生を顧みて「先生、どうですか」と尋ねると、先生は「君の考えは現象学のようなもので、三木の考えは新カント派のようなもので、どちらがよいか、むつかしい問題だ」という意味のことを答えられた。先生からそう言われて初めて私は自分の考えが新カント派的であることに気づいて、いつのまにか深くその影響を受けていたのにむしろ驚いたことである。
私がかように新カント派の影響を受けたのは、高等学校の時の読書会でヴィンデルバントを読んだことが素地をなしていたのであろうが、その時代のわが国の哲学の一般的傾向にも関係があったであろう。すでにいったごとく私が大学に入学した大正六年は、西田先生の画期的な書物『自覚における直観と反省』の現われた年であるが、やはりその年に桑木厳翼先生の名著『カントと現代の哲学』が出ている。これはカント哲学への入門書として私の熱心に読んだ本であった。その前年には朝永三十郎先生の名著『近世における「我」の自覚史』が出ている。私は一高にいてこの本を感激をもって読んだのであるが、その立場は新カント派である。そしてやはり大正六年の暮にはリッケルトの弟子であった左右田喜一郎先生の名著『経済哲学の諸問題』が出ている。これも私には忘れられない本である。左右田博士の影響によって、その頃からわが国の若い社会科学者、特に経済学者の間で哲学が流行し、誰もヴィンデルバント、リッケルトの名を口にするようになった。日本における新カント派の全盛時代であった。
私は左右田先生の本を読んで、哲学が広く他の諸科学に交渉をもたねばならぬことを考えるようになった。経済学者などの書くものに私が注意を向けるようになったのはその時以来のことである。当時そうした本で最も印象に残っているのは、小樽高等商業学校の教授で、その才を惜しまれつつ若くして亡くなった大西猪之介氏の『囚われたる経済学』である。後に左右田博士の斡旋で『大西猪之介経済学全集』が出た時、私も求めて所蔵している。左右田先生は、私が大学院にいた頃、京都に講義に来られたことがあるが、その時初めて先生にお目にかかり、その学問に対する純粋な愛に深く打たれた。その後私はドイツに留学した時、リッケルト教授のゼミナールに出席し、左右田博士のリッケルト批評について報告したことがあるが、リッケルト教授も左右田博士も共に喜ばれた。そんなことから左右田先生とつながりができ、先生が亡くなられて後にも、先生の愛弟子であった本多謙三君と親しくしていたが、その本多君も前途を嘱目されつつ先年亡くなってしまったのは惜しいことである。ところがまた私は、やはり先生の愛弟子《まなでし》である杉村広蔵君の隣に住み、親しく交るようになったというのも、左右田先生につながる因縁であろうか。
九
京都大学の諸先生からはいずれもいろいろ影響を受けたが、中にも私が入学したのと同じ年に波多野精一先生が東京から宗教学の教授になって来られたのは、私にとって仕合わせなことであった。先生の名は『西洋哲学史要』、『スピノザ研究』、『キリスト教の起源』などの著書を通じて知っていたが、その頃先生の思想も新カント派に近かったようである。先生は最もプロフェッサーらしいプロフェッサーであった。私は先生から歴史研究の重要なことについて深く教えられた。また西洋哲学を勉強するにはそのいわば永遠の源泉であるギリシア哲学とキリスト教とをぜひ研究しなければならぬということを諭《さと》されたのも先生であった。その影響で私はギリシア語の勉強を始め、辞書と首引きでプラトンを読んだり、またキリスト教の文献に注意するようになった。これまでの自分を振返ってみると、私は考え方の上では西田先生の影響を最も強く受け、研究の方向においては波多野先生の影響を最も多く受けていることになるように思う。私の勉強が歴史哲学を中心とするようになったこと、あるいはアリストテレスなどの研究に興味をもつようになったこと、またパスカルなどについて書くようになったことは、その遠い原
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