ーペンハウエルに傾倒していた。彼ばかりではない、その時代の青年がたいていそういう風であったのである。
 日本における哲学書の出版に新しい時期を画した岩波の『哲学叢書』が出始めたのは、その頃のことである。私なども紀平正美氏の『認識論』とか宮本和吉氏の『哲学概論』とか、分らないながら幾度も読んだものである。速水先生の『論理学』は、学校における先生の講義の教科書であった。つまり私の哲学の勉強は岩波の哲学叢書と一緒に始まったのである。高等学校の時、その方面で私がいちばん多く読んだのは心理学と論理学との本であった。大学へ行ってから哲学を専攻する者は高等学校時代には論理と心理とをよく勉強しておかねばならぬと私どもの仲間で一般にいわれていたので、その本を特に読んだわけであるが、それはまた私の場合速水先生の感化によることでもあった。一高の先生で私が最も多く影響を受けたのは速水先生である。先生の『現代の心理学』という本は私の熱心に繙いたものの一つであり、非常によい本であったように記憶している。哲学を専攻する者は何でも原書で読む稽古をしておかねばならぬとまた私どもの仲間でいっていたが、その原書は、戦争のためにドイツのものが来なくなっており、主として英書を読まねばならなかった。そしてまた哲学はドイツに限るようにきかされていたので、英語のものを読むとすればしぜん心理や論理の本を読むということにもなったのである。当時の一高生はよく本郷から日本橋の丸善まで歩いて行ったものであるが、そうして買って読んだ本で、今も私の手許に残っていて懐しいものに、ジェームズの『心理学原理』、ミルの『論理学体系』などがある。しかしその時代は何といってもわが国の思想界ではドイツの学問が圧倒的であった。心理学の方面でもヴントの名が最も喧しかった。私も速水先生の訳されたヴントの小さい心理学を初め、須藤新吉氏のヴントの『心理学』などを読み、また古本屋でヴントの『心理学綱要』の原書を見つけてきて勉強した。哲学の方面でもその頃からヴィンデルバントを初め新カント派の哲学が次第に一般の流行になりつつあった。ある時、三並先生を柏木のお宅に訪ねたら、哲学をやるにはカントを研究しなければならず、カントを研究するにはコーヘンのカント論を読まねばならぬといって、マントルピースの上に置いてあったコーヘンの三つのカント書を見せて下さった。そのような時代であったので、戦争のためにドイツの本が来なくなると日本の学問は衰えるというような論も行なわれた。そのことを公然と述べた人があってだいぶん問題になったこともあったが、たいていの学者は心中実際にそのように考えているのではなかったかと思う。ともかく第一次世界戦争が私に直接の影響として感じられたのは、ドイツ語の本が手に入らないということくらいであった。現在では全く想像もできないようなことである。

      八

 大学生活の三年間、私は下鴨の同じ一つの下宿で暮らした。それは蓼倉町で、その頃はまだ附近に余り家が建っていなかったので、室を出るとすぐ前に比叡山を見ることができた。九月のなかば初めてその下宿に行ったとき、葉鶏頭の鮮かな色がきわめて印象的であったが、その家では毎年美しい葉鶏頭を作っていた。私はその下宿を「雁来紅の家」と自分ひとりで呼んでいた。今でも葉鶏頭を見ると、八田といったその下宿のことが思い出されるのである。同じ年京都の哲学科に入ったのは私と広島高等師範を出た林礼二郎(旧姓森川)との二人であったが、やがて森川も私の下宿に移ってきて、私と同様卒業するまでそこに留まった。私たちはたいてい一緒に加茂の森を抜けて学校へ通った。
 大学時代に読んだもので最も大きな影響を受けたのはいうまでもなく西田幾多郎先生の著作である。ちょうど私の入学した年の秋『自覚における直観と反省』が本になって出た。続いて先生は『哲学研究』誌上に多くの論文を発表してゆかれた。私は先生の書かれたものを読むと共に、その中に引用されている本をできるだけ自分で読んでみるという勉強の仕方をとった。あの時分の先生の論文の中には実にいろいろの書物が出てくるのであるが、私の哲学勉強もおのずから多方面にわたった。先生は種々の哲学を紹介されたが、ひとたび先生の手で紹介されると、どの本もみな面白そうに思われ、読んでみたい気持を起させた。かようにして私は、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学を初め、バーデン学派やマールブルク学派の新カント哲学、マイノングの対象論、ブレンターノの心理学、ロッツェの論理学、等々、いろいろのものを読んでみることに心がけた。アウグスティヌスやライプニッツの名も挙げておきたい。何を最も多く読んだかときかれるなら、私は二年生の時のリポートにライプニッツについて書き、卒業論文は『批判哲学と歴
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