とかいうものは「文化」には属しないで「文明」に属するものと見られて軽んじられた。言い換えると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによって代表されている――に対する反動として起ったものである。それがわが国において「教養」という言葉のもっている歴史的含蓄であって、言葉というものが歴史を脱することのできないものである限り、今日においても注意すべき事実である。私はその教養思想が擡頭してきた時代に高等学校を経過したのであるが、それは非政治的で現実の問題に対して関心をもたなかっただけ、それだけ多く古典というものを重んじるという長所をもっていた。日本における教養思想に大きな影響を与えたのはケーベル博士であって、その有力な主張者たちは皆ケーベル博士の弟子であった。かようにして私もまた一高時代の後半において比較的多く古典を読んだのである。ダンテの『神曲』とかゲーテの『ファウスト』など、むつかしくて分らないところも多かったがともかく一生懸命に読んだものである。『ファウスト』はドイツ語の時間に今は亡くなられた三並良先生から教わったこともある。その試験にドイツ文でファウスト論を書けという課題が与えられたが、私はその中に出てくるワグネルという人物について論じた。それがよく出来ていたというので賞められ、そんなことから三並先生には特別に親しくしていただくようになったというようなこともあった。特に影響されたものというと、ニーチェの『ツァラツストラ』であったであろうか。後に単行本になった阿部次郎氏の『ツァラツストラ解釈』も『思潮』に出ていたころ熱心に読んだものの一つである。古典という観念に影響された私の読書の範囲も量も、その頃の私の貧弱な読書力からいって、勢い局限されざるを得なかった。日本の文学では、その頃から次第に読書階級の間に動かしがたい地位を占めてきた漱石のものを比較的多く読んだように思う。これも当時の教養思想の有力な主張者たちの多くがまた漱石門下であったということにしぜん影響されたのであろう。ともかく高等学校時代、私は決して多読家ないし博読家でなかった。その時分私どもの仲間で読書家として知られていたのは蝋山政道君であった。何でも蝋山君は、大隈重信が会長であった大日本文明協会というので出していた西洋の学術書の翻訳を全部読んでいるというような噂であった。今でも蝋山君を見ると、あの頃毎日学校の図書館へ通っていた姿が眼に浮んでくることがある。
 その時代私の読書における一つのエピソードは、塩谷温先生――その御尊父青山先生から私どもは学校で漢文を習った――のお宅に伺って『資治通鑑』を読むという小さな会に参加したことである。この会の中心は私より一級下の倉石武四郎君であった。倉石君は現在京大の支那学の教授であるが、先だって同君からその著書『支那語教育の理論と実際』という本をもらって、ふとこの読書会のことを思い出した。会員は倉石君のほか、松山高等学校にいる川畑思無邪君、東京の諸大学でインド哲学を講じている山本快竜君、そして私のクラスからは寺崎修一と私とが加わったように思う。私たちは一週一回、寮の夕食がすむと、小石川の塩谷先生のお宅まで歩いて行った。本読みがすむと、いつも焼芋が出て雑談になったのを覚えている。あの頃から倉石君は実によく漢文を読むことができた。おとなしいうちにも何か毅然としたものをもっている人であったが、その倉石君が近年漢文を返り点によって日本読みにすることに反対してそのまま支那音で読み下すべきことを主張し、支那語教育のためのレコードを作ったりなどしているのは、面白いことである。
 読書会といえば、高等学校三年生の時、私が先に立って哲学の読書会を組織したことがある。ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲学とは何か』を速水滉先生に願って読んでいただいたのである。会員は二十名くらいであったであろうか。その頃は世界戦争の影響でドイツ書を手に入れることができなかったので、謄写版刷りを作ってテキストにした。その時分私は大学に入ってから哲学をやることに決めていた。久しく迷っていた私にその決心をさせたのは西田幾多郎先生の『善の研究』であった。しかしそのことについては他の場所で書いておいたから、ここではもう繰り返さないことにする。宮島鋭夫に連れられて桑木厳翼先生を初めてお訪ねしたのもその頃であった。宮島は後に東大の哲学科に入った。永い間病気ばかりしていてまことに気の毒であったが、昨年とうとう死んでしまった。その通知をもらって後、桑木先生に会ったら宮島の話が出たので、あの時のことの記憶を新たにしたわけである。高等学校を卒業する前、彼からもらったレクラム版のショーペンハウエルの全集は、私にとって貴重な記念である。当時宮島はショ
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