ろにトルストイの偉さがあるのかも知れない。ルソオの『懺悔録』とか、アウグスティヌスの『告白録』とか、マルクス・アウレリウスの『省察録』とか、そういった種類の、あるいは名前の本を私は好んで読んだ。哲学者ではショーペンハウエルとかニーチェとかの生の哲学が流行し、私もその影響をこうむった。和辻哲郎氏の『ニーチェ研究』とか『ゼーレン・キェルケゴール』とかは、当時の雰囲気を現わしている書物である。文学においても私はロシア文学に多く興味をもつようになり、ことにチェーホフの作品を愛読し『桜の園』のごときは幾度も繰り返して繙いたものである。青年の間では華巌の滝で自殺した藤村操が始終話題にのぼるという時代であったのである。私なども本を読みながら本に対して全く懐疑的になり、自分の持っていた本を売り払ってしまうというようなことが一度ならずあった。
今私が直接に経験してきた限り当時の日本の精神界を回顧してみると、まず冒険的で積極的な時代があり、その時には学生の政治的関心も一般に強く、雄弁術などの流行を見た――この時代を私は中学の時にいくらか経験した――が、次にその反動として内省的で懐疑的な時期が現われ、そしてそうした空気の中から「教養」という観念がわが国のインテリゲンチャの間に現われたのである。したがってこの教養の観念はその由来からいって文学的ないし哲学的であって、政治的教養というものを含むことなく、むしろ意識的に政治的なものを外面的なものとして除外し排斥していたということができるであろう。教養の観念は主として漱石門下の人々でケーベル博士の影響を受けた人々によって形成されていった。阿部次郎氏の『三太郎の日記』はその代表的な先駆で、私も寄宿寮の消燈後蝋燭の光で読みふけったことがある。この流れとは別で、しかし種々の点で接触しながら教養の観念の拡充と積極化に貢献したのは白樺派の人々であったであろう。私もこの派の人々のものを読むようになったが、その影響を受けたというのは大学に入ってから後のことである。かようにして日本におけるヒューマニズムあるいはむしろ日本的なヒューマニズムが次第に形成されていった。そしてそれは例えばトルストイ的な人道主義もしくは宗教的な浪漫主義からやがて次第に「文化」という観念に中心をおくようになっていったと考えることができるのではないかと思う。阿部・和辻氏らの雑誌『思潮』が出て、私もその愛読者の一人となったが、それが後に岩波の『思想』に変ったのである。
高等学校の最初の二年間は私にとっては内省的な彷徨時代であった。二年生になる時学校の規則で文学を志望するか哲学を志望するかを決定しなければならなかったので、私は哲学と書いて出しはしたが、自分の心ではまだいずれとも決定しかねていた。私の気持がまとまって、はっきり哲学をやることに決めたのは三年生の時で、その頃から私の読書の傾向も変ってきた。
七
考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった。「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。そう考えると、日露戦争の時、戦争を知らないで研究室の生活を続けていた大学者があるという嘘のようなことも、十分あり得ることであったろうと思われる。私があの世界戦争を直接に経験したのはむしろその後一九二二年ヨーロッパへ行った時である。これは現在の戦争とは全く様子が違っていることである。近代戦争というものはリアリスティックになっている。近代戦争のこの性質はあらゆる人をその中に引き入れて何人も圏外に立つことを許さないというところに率直に現われる。その意味においてそれは全くメカニカルな必然性をもっている。これに反して以前は戦争にしても有機的なものであった、あるいはロマンティックであった。もちろん現在も戦争には何らかロマンティシズムが必要であろう。それにもかかわらず近代戦争は本質的にリアリスティックなものである。近代戦争のこの性質について深く考えてみるのは極めて重要なことである。
あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。あるいは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのはかえってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的ないし非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。あの「教養」という思想は文学的・哲学的であった。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術
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