ど感銘を受けた本であった。しかし旧約の面白さがわかるようになったのは、ずっと後のことである。『聖書』は今も私の座右の書である。仏典の経典では浄土真宗のものが私にはいちばんぴったりした。キリスト教と浄土真宗との間にはある類似があると見る人があるが、そういうところがあると考えることもできるであろう。元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する「正信偈」とか「御文章」とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。こうした子供の時からの影響にもよるであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。そしてこれは今も変ることがない。いったいわが国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遙かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明《せんめい》してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。近角常観先生の『歎異鈔講義』も忘れられない本である。本郷森川町の求道学舎で先生から『歎異鈔』の講義を聴いたこともある。近角先生はその時代の一部の青年に大きな感化を与えられたようであった。島地大等先生の編纂された『聖典』は、現在も私の座右の書となっている。
私のみではない、その頃の青年にはいったいに宗教的な関心が強かったようである。日本の思想界が一般に内省的になりつつある時代であった。中学時代の初めに興味をもって読んだ『冒険世界』というような雑誌がいつしか姿を消して、やがて倉田百三氏の『出家とその弟子』とか『愛と認識との出発』とかが現われて青年の間に大きな反響を見出すようになる雰囲気の中で、私は高等学校生活を経てきた。一高にも日蓮宗とか、禅宗とか、真宗とかの学生の会があり、私も時々出席してみたことがある。私の最も親しくするようになった宮島鋭夫に誘われて、ある夏私は彼と一緒に鎌倉の円覚寺の一庵に宿り、坐禅をしたこともある。一日禅坊を出て、宮島の知っている堀口大学氏が浄智寺に来ておられるというので訪ねたことがある。堀口氏に会うといつもあの頃のことを思い出すのであるが、まだ口にしないのである。恐らく堀口氏の記憶には残っていないことであろう。
六
私の文学熱はこうして冷めていった。中学を卒業する前、将来は文学をやろうと考えて、当時鹿児島県に移っておられた寺田喜治郎先生に手紙で相談し、先生からは勧めの返事をいただいたのであるが、一高の文科に入ってからはそうした考えはむしろ薄らいでいった。私は文学に対しても懐疑的になっていた。弁論部に関心がなかったと同様、文芸部にも興味がなかった。一年生の時にはかえって一時剣道部に席をおいたことがある。こうした私は芹沢慎一氏――光治良氏の令兄――にひっぱられてボート部に入り、組選を漕ぐことになった。墨田川に行ってボートを漕ぐことは、運動は元来不得手であるにもかかわらず、当時懐疑的になっていた私にとって一つの逃避方法であった。一緒に組選を漕いだ仲間で哲学方面へ行った者には、後に東北大学の宗教学の助教授にまでなって惜しいことに病に斃れてしまった寺崎修一がある。独法の我妻栄、三輪寿壮などの諸君もボートの関係で知り合いになった人々である。京都大学に入ってからも、私は文科の選手として琵琶湖や瀬田川でボートを漕いだことがある。
ともかく私の読書の興味の中心は次第に文学書から宗教書に移っていった。それは時代の精神的気流の変化の影響によることでもある。トルストイの『わが懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すというような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていた。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時はある種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満洲を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。しかし老齢になってからもなお気取ることができたとこ
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