任を引受けてゐるものを我々は歴史と呼んでゐる。

 噂として存在するか否かは、物が歴史的なものであるか否かを區別する一つのしるしである。自然のものにしても、噂となる場合、それは歴史の世界に入つてゐるのである。人間の場合にしても、歴史的人物であればあるほど、彼は一層多く噂にのぼるであらう。歴史はすべてかくの如く不安定なものの上に據つてゐる。尤も噂は物が歴史に入る入口に過ぎぬ。たいていのものはこの入口に立つだけで消えてしまふ。ほんとに歴史的になつたものは、もはや噂として存在するのでなく、むしろ神話として存在するのである。噂から神話への範疇轉化、そこに歴史の觀念化作用がある。
 かくの如く歴史は情念の中から觀念もしくは理念を作り出してくる。これは歴史の深い祕密に屬してゐる。
 噂は歴史に入る入口に過ぎないが、それはこの世界に入るために一度は通らねばならぬ入口であるやうに思はれる。歴史的なものは噂といふこの荒々しいもの、不安定なものの中から出てくるのである。それは物が結晶する前に先づなければならぬ震盪の如きものである。
 歴史的なものは批評の中からよりも噂の中から決定されてくる。物が歴史的になるためには、批評を通過するといふことだけでは足りない、噂といふ更に氣紛れなもの、偶然的なもの、不確定なものの中を通過しなければならぬ。

 噂よりも有力な批評といふものは甚だ稀である。

 歴史は不確定なものの中から出てくる。噂といふものはその最も不確定なものである。しかも歴史は最も確定的なものではないのか。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。

 噂するやうに批評する批評家は多い。けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である。私の知る限りではヴァレリイがそれだ。かやうな批評家には數學者のやうな知性が必要である。しかし如何に多くの批評家が獨斷的であるか。そこでまた如何に多くの批評家が、自分も世間も信じてゐるのとは反對に、批評的であるよりも實踐的であるか。
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    利己主義について

 一般に我々の生活を支配してゐるのは give and take の原則である。それ故に純粹な利己主義といふものは全く存在しないか或ひは極めて稀である。いつたい誰が取らないでただ與へるばかりであり得るほど有徳或ひはむしろ有力であり得るであらうか。逆にいつたい誰が與へないでただ取るばかりであり得るほど有力或ひはむしろ有徳であり得るであらうか。純粹な英雄主義が稀であるやうに、純粹な利己主義もまた稀である。

 我々の生活を支配してゐるギヴ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合我々は意識しないでそれに從つてゐる。言ひ換へると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
 利己主義者が不氣味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるためであるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それ故にまた利己主義者を苦しめるものは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。

 利己主義者は原則的な人間である、なぜなら彼は意識的な人間であるから。――ひとは習慣によつてのほか利己主義者であることができない。これら二つの、前の命題とも反し、また相互に矛盾する命題のうちに、人間の力と無力とが言ひ表はされる。

 我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に從つてゐると言へばたいていの者がなにほどかは反感を覺えるであらう。そのことは人生において實證的であることが如何に困難であるかを示してゐる。利己主義といふものですら、殆どすべてが想像上のものである。しかも利己主義者である要件は、想像力をもたぬといふことである。
 利己主義者が非情に思はれるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのやうに想像力は人生にとつて根本的なものである。人間は理性によつてといふよりも想像力によつて動物から區別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。

 愛情は想像力によつて量られる。

 實證主義は本質的に非情である。實證主義の果てが虚無主義であるのはだから當然のことである。
 利己主義者は中途半端な實證主義者である。それとも自覺に達しない虚無主義者であるといへるであらうか。
 利己的であることと實證的であることとは、しばしば摩替へられる。一つには自己辯解のために、逆には他人攻撃のために。

 我々の生活を支配するギヴ・アンド・テイクの原則は、期待の原則である。與へることには取ることが、取ることには與へることが、期待されてゐる。それは期待の原則として、決定論的なものでなくてむしろ確率論的なものである。このやうに人生は蓋然的なものの上に成り立つてゐる。人生においては蓋然的なものが確實なものである。

 我々の生活は期待の上になり立つてゐる。

 期待は他人の行爲を拘束する魔術的な力をもつてゐる。我々の行爲は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもつてゐる。他人の期待に反して行爲するといふことは考へられるよりも遙かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇氣をもたねばならぬ。世間が期待する通りにならうとする人は遂に自分を發見しないでしまふことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である。

 利己主義者は期待しない人間である、從つてまた信用しない人間である。それ故に彼はつねに猜疑心に苦しめられる。
 ギヴ・アンド・テイクの原則を期待の原則としてでなく打算の原則として考へるものが利己主義者である。

 人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未來に延ばし得るかといふ問題である。この時間的な問題はしかし單なる打算の問題でなくて、期待の、想像力の問題である。

 この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といはれる。これがカントの神の存在の證明の要約である。

 利己主義者は他の人間が自分とは同じやうでないことを暗默に前提してゐる。もしすべての人間が利己的であるとしたなら、彼の利己主義も成立し得ない筈であるから。利己主義者の誤算は、その差異がただ勘定の期限の問題であることを理解しないところにある。そしてこれは彼に想像力が缺けてゐるといふことの證據にほかならない。

 利己主義者は自分では十分合理的な人間であると思つてゐる。そのことを彼は公言もするし、誇りにさへもしてゐる。彼は、彼の理智の限界が想像力の缺乏にあることを理解しないのである。

 すべての人間が利己的であるといふことを前提にした社會契約説は、想像力のない合理主義の産物である。社會の基礎は契約でなくて期待である。社會は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である。

 どのやうな利己主義者も自己の特殊的な利益を一般的な利益として主張する。――そこから如何に多くの理論が作られてゐるか。――これに反して愛と宗教とにおいては、ひとは却つて端的に自己を主張する。それらは理論を輕蔑するのである。

 利己主義といふ言葉は殆どつねに他人を攻撃するために使はれる。主義といふものは自分で稱するよりも反對者から押し附けられるものであるといふことの最も日常的な例がここにある。
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    健康について

 何が自分の爲になり、何が自分の害になるか、の自分自身の觀察が、健康を保つ最上の物理學であるといふことには、物理學の規則を超えた智慧がある。――私はここにこのベーコンの言葉を記すのを禁ずることができない。これは極めて重要な養生訓である。しかもその根柢にあるのは、健康は各自のものであるといふ、單純な、單純な故に敬虔なとさへいひ得る眞理である。

 誰も他人の身代りに健康になることができぬ、また誰も自分の身代りに健康になることができぬ。健康は全く銘々のものである。そしてまさにその點において平等のものである。私はそこに或る宗教的なものを感じる。すべての養生訓はそこから出立しなければならぬ。

 風采や氣質や才能については、各人に個性があることは誰も知つてゐる。しかるに健康について同じやうに、それが全く個性的なものであることを誰も理解してゐるであらうか。この場合ひとはただ丈夫なとか弱いとかいふ甚だ一般的な判斷で滿足してゐるやうに思はれる。ところが戀愛や結婚や交際において幸福と不幸を決定するひとつの最も重要な要素は、各自の健康における極めて個性的なものである。生理的親和性は心理的親和性に劣らず微妙で、大切である。多くの人間はそれに氣附かない、しかし本能が彼等のために選擇を行つてゐるのである。
 かやうに健康は個性的なものであるとすれば、健康についての規則は人間的個性に關する規則と異らないことになるであらう。――即ち先づ自己の個性を發見すること、その個性に忠實であること、そしてその個性を形成してゆくことである。生理學の規則と心理學の規則とは同じである。或ひは、生理學の規則は心理學的にならねばならず、逆に心理學の規則は生理學的にならねばならぬ。

 養生論の根柢には全自然哲學がある。これは以前、東洋においても西洋においても、さうであつたし、今日もまたさうでなければならぬ。ここに自然哲學といふのはもちろんあの醫學や生理學のことではない。この自然哲學と近代科學との相違は、後者が窮迫感から出發するのに反して、前者は所有感から出立するところにあるといふことができるであらう。發明は窮迫感から生ずる。故に後者が發明的であるのに反して、前者は發見的であるといふこともできるであらう。近代醫學は健康の窮迫感から、その意味での病氣感から出てきた。しかるに以前の養生論においては、所有されてゐるものとしての健康から出立して、如何にしてこの自然のものを形成しつつ維持するかといふことが問題であつた。健康は發明させない、病氣が發明させるのである。

 健康の問題は人間的自然の問題である。といふのは、それは單なる身體の問題ではないといふことである。健康には身體の體操と共に精神の體操が必要である。

 私の身體は世の中の物のうち私の思想が變化することのできるものである。想像の病氣は實際の病氣になることができる。他の物においては私の假定が物の秩序を亂すことはあり得ないのに。何よりも自分の身體に關する恐怖を遠ざけねばならぬ。恐怖は效果のない動搖を生ずるだけであり、そして思案はつねに恐怖を増すであらう。ひとは自分が破滅したと考へるやうになる、ところが一旦何か緊急の用事が出來ると、彼は自分の生命が完全であるのを見出すといつた例は多い。

 自然に從へといふのが健康法の公理である。必要なのは、この言葉の意味を形而上學的な深みにおいて理解することである。さしあたりこの自然は一般的なものでなくて個別的なもの、また自己形成的なものである。自然に從ふといふのは自然を模倣するといふことである。――模倣の思想は近代的な發明の思想とは異つてゐる。――その利益は、無用の不安を除いて安心を與へるといふ道徳的效果にある。

 健康は物の形といふやうに直觀的具體的なものである。

 近代醫學が發達した後においても、健康の問題は究極において自然形而上學の問題である。そこに何か變化がなければならぬとすれば、その形而上學が新しいものにならねばならぬといふだけである。醫者の不養生といふ諺は、養生については、醫者にも形而上學が必要であることを示すものにほかならぬ。

 客觀的なものは健康であり、主觀的なものは病的である。この言葉のうちに含まれる形而上學から、ひとは立派な養生訓を引き出すことができるであらう。

 健康の觀念に最も大きな變化を與へたのはキリスト教であつた。この影響はその主觀性の哲學から生じたのである。健康の哲學を求めたニーチェがあのやうに嚴しくキリスト教を攻撃したのは當然である。けれどもニーチェ自身の主觀主義は、彼があれほど求めた健康の哲學に對して破壞的であるのほかなかつた。ここに注意すべきこと
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