のモラルから成功のモラルへの推移を可能にした。成功といふものは、進歩の觀念と同じく、直線的な向上として考へられる。しかるに幸福には、本來、進歩といふものはない。
中庸は一つの主要な徳であるのみでなく、むしろあらゆる徳の根本的な形であると考へられてきた。この觀點を破つたところに成功のモラルの近代的な新しさがある。
成功のモラルはおよそ非宗教的なものであり、近代の非宗教的な精神に相應してゐる。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するやうになつて以來、人間は眞の幸福が何であるかを理解し得なくなつた。自分の不幸を不成功として考へてゐる人間こそ、まことに憐れむべきである。
他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見てゐる場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考へられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴ひ易い。
幸福が存在に關はるのに反して、成功は過程に關はつてゐる。だから、他人からは彼の成功と見られることに對して、自分では自分に關はりのないことであるかのやうに無關心でゐる人間がある。かやうな人間は二重に他人から嫉妬されるおそれがあらう。
Streber――このドイツ語で最も適切に表はされる種類の成功主義者こそ、俗物中の俗物である。他の種類の俗物は時として氣紛れに俗物であることをやめる。しかるにこの努力家型の成功主義者は、決して軌道をはづすことがない故に、それだけ俗物として完全である。
シュトレーバーといふのは、生きることがそもそも冒險であるといふ形而上學的眞理を如何なる場合にも理解することのない人間である。想像力の缺乏がこの努力家型を特徴附けてゐる。
成功も人生に本質的な冒險に屬するといふことを理解するとき、成功主義は意味をなさなくなるであらう。成功を冒險の見地から理解するか、冒險を成功の見地から理解するかは、本質的に違つたことである。成功主義は後の場合であり、そこには眞の冒險はない。人生は賭であるといふ言葉ほど勝手に理解されて濫用されてゐるものはない。
一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。
純粹な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はさうではない。エピゴーネントゥム(追隨者風)は多くの場合成功主義と結び附いてゐる。
近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性ではない。
古代においては、個人意識は發達してゐなかつたが、それだけに型的な人間が個性的であるといふことがあつた。個人意識の發達した現代においては却つて、型的な人間は量的な平均的な人間であつて個性的でないといふことが生じた。現代文化の悲劇、或ひはむしろ喜劇は、型と個性との分離にある。そこに個性としては型的な強さがなく、型としては個性的な鮮かさのない人間が出來たのである。
成功のモラルはオプティミズムに支へられてゐる。それが人生に對する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。オプティミズムの根柢には合理主義或ひは主知主義がなければならぬ。しかるにオプティミズムがこの方向に洗煉された場合、なほ何等か成功主義といふものが殘り得るであらうか。
成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである。
近代的な冒險心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の觀念との混合から生れた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であつたやうに、近代のそれは企業家であるといひ得るであらう。少くともそのやうに考へらるべき多くの理由がある。しかるにそれが一般にはそのやうに純粹に把握されなかつたのは近代の拜金主義の結果である。
もしひとがいくらかの權力を持つてゐるとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであらう。部下を御してゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。
私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に對する極端な反感にあつたことを知るのである。
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瞑想について
たとへば人と對談してゐる最中に私は突然默り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想はつねに不意の客である。私はそれを招くのでなく、また招くこともできない。しかしそれの來るときにはあらゆるものにも拘らず來るのである。「これから瞑想しよう」などといふことはおよそ愚にも附かぬことだ。私の爲し得ることはせいぜいこの不意の客に對して常に準備をしておくことである。
思索は下から昇つてゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである。それは或る天與の性質をもつてゐる。そこに瞑想とミスティシズムとの最も深い結び附きがある。瞑想は多かれ少かれミスティックなものである。
この思ひ設けぬ客はあらゆる場合に來ることができる。單にひとり靜かに居る時のみではない、全き喧騒の中においてもそれは來るのである。孤獨は瞑想の條件であるよりも結果である。例へば大勢の聽衆に向つて話してゐる時、私は不意に瞑想に襲はれることがある。そのときこの不可抗の闖入者は、私はそれを虐殺するか、それともそれに全く身を委せてついてゆくかである。瞑想には條件がない。條件がないといふことがそれを天與のものと思はせる根本的な理由である。
プラトンはソクラテスがポティダイアの陣營において一晝夜立ち續けて瞑想に耽つたといふことを記してゐる。その時ソクラテスはまさに瞑想したのであつて、思索したのではない。彼が思索したのは却つて彼が市場に現はれて誰でもを捉へて談論した時である。思索の根本的な形式は對話である。ポティダイアの陣營におけるソクラテスとアテナイの市場におけるソクラテス――これほど明瞭に瞑想と思索との差異を現はしてゐるものはない。
思索と瞑想との差異は、ひとは思索のただなかにおいてさへ瞑想に陷ることがあるといふ事實によつて示されてゐる。
瞑想には過程がない。この點において、それは本質的に過程的な思索と異つてゐる。
すべての瞑想は甘美である。この故にひとは瞑想を欲するのであり、その限りすべての人間はミスティシズムに對する嗜好をもつてゐる。けれども瞑想は本來我々の意欲に依存するものではない。
すべての魅力的な思索の魅力は瞑想に、このミスティックなもの、形而上學的なものにもとづいてゐる。その意味においてすべての思想は、元來、甘いものである。思索が甘いものであるのではない、甘い思索といふものは何等思索ではないであらう。思索の根柢にある瞑想が甘美なものなのである。
瞑想はその甘さの故にひとを誘惑する。眞の宗教がミスティシズムに反對するのはかやうな誘惑の故であらう。瞑想は甘いものであるが、それに誘惑されるとき、瞑想はもはや瞑想ではなくなり、夢想か空想かになるであらう。
瞑想を生かし得るものは思索の嚴しさである。不意の訪問者である瞑想に對する準備といふのは思索の方法的訓練を具へてゐることである。
瞑想癖といふ言葉は矛盾である。瞑想は何等習慣になり得る性質のものではないからである。性癖となつた瞑想は何等瞑想ではなく、夢想か空想かである。
瞑想のない思想家は存在しない。瞑想は彼にヴィジョンを與へるものであり、ヴィジョンをもたぬ如何なる眞の思想も存在しないからである。眞に創造的な思想家はつねにイメージを踏まへて嚴しい思索に集中してゐるものである。
勤勉は思想家の主要な徳である。それによつて思想家といはゆる瞑想家或ひは夢想家とが區別される。もちろんひとは勤勉だけで思想家になることはできぬ。そこには瞑想が與へられねばならないから。しかし眞の思想家はまた絶えず瞑想の誘惑と戰つてゐる。
ひとは書きながら、もしくは書くことによつて思索することができる。しかし瞑想はさうではない。瞑想はいはば精神の休日である。そして精神には仕事と同樣、閑暇が必要である。餘りに多く書くことも全く書かぬことも共に精神にとつて有害である。
哲學的文章におけるパウゼといふものは瞑想である。思想のスタイルは主として瞑想的なものに依存してゐる。瞑想がリヅムであるとすれば、思索はタクトである。
瞑想の甘さのうちには多かれ少かれつねにエロス的なものがある。
思索が瞑想においてあることは、精神が身體においてあるのと同樣である。
瞑想は思想的人間のいはば原罪である。瞑想のうちに、從つてまたミスティシズムのうちに救濟があると考へることは、異端である。宗教的人間にとつてと同樣に、思想的人間にとつても、救濟は本來ただ言葉において與へられる。
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噂について
噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しやうもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り卷かれながら生きてゆくのほかない。
しからば噂は我々にとつて運命の如きものであらうか。それは運命であるにしては餘りに偶然的なものである。しかもこの偶然的なものは時として運命よりも強く我々の存在を決定するのである。
もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさへ決定するといふのは如何なることであらうか。
噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさへ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に關係してくるのである。しかもこの關係は掴むことのできぬ偶然の集合である。我々の存在は無數の眼に見えぬ偶然の絲によつて何處とも知れぬ處に繋がれてゐる。
噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無數の偶然的な基準があり、從つて本來なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社會的に存在する一つの最も重要な形式なのである。
評判を批評の如く受取り、これと眞面目に對質しようとすることは、無駄である。いつたい誰を相手にしようといふのか。相手は何處にもゐない、もしくは到る處にゐる。しかも我々はこの對質することができないものと絶えず對質させられてゐるのである。
噂は誰のものでもない、噂されてゐる當人のものでさへない。噂は社會的なものであるにしても、嚴密にいふと、社會のものでもない。この實體のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じてゐる。噂は原初的な形式におけるフィクションである。
噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競爭心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至つてはもはや情念的なものでなくて觀念的なものである。――熱情をもつて語られた噂は噂として受取られないであらう。――そこにいはば第一次の觀念化作用がある。第二次の觀念化作用は噂から神話への轉化において行はれる。神話は高次のフィクションである。
あらゆる噂の根源が不安であるといふのは眞理を含んでゐる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また傳へる。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいふべく、從つてまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考へられるのもこれに依つてである。虚無から生れたものとして噂はフィクションである。
噂は過去も未來も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永續するに從つて神話に變つてゆく。その噂がどのやうなものであらうと、我々は噂されることによつて滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無關心で冷靜であり得る人間は少いから。
噂には誰も責任者といふものがない。その責
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