定されたものとなつた。實體的なものは關係に分解されることによつて最も嚴密に限定されたものとなつた。この限定された世界に對して以前の世界がむしろ無限定であるといはねばならぬであらう。しかしながらそれにも拘らず今日の世界は無限定である、關係的乃至函數的には限定されてゐるにしても、或ひはむしろそのやうに限定され盡した結果、形としては却つて無限定なものになつてゐる。この無限定が實は特定の限定の仕方の發達した結果生じたものであるところに、現代人の無性格といはれるものの特殊な複雜さがある。
 今日の人間の最大の問題は、かやうに形のないものから如何にして形を作るかといふことである。この問題は内在的な立場においては解決されない。なぜならこの無定形な状態は限定の發達し盡した結果生じたものであるから。そこに現代のあらゆる超越的な考へ方の意義がある。形成は虚無からの形成、科學を超えた藝術的ともいふべき形成でなければならぬ。一種藝術的な世界觀、しかも觀照的でなくて形成的な世界觀が支配的になるに至るまでは、現代には救濟がないといへるかも知れない。

 現代の混亂といはれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。對立するものが綜合されてゆくといふよりもむしろ對立するものが混合されてゆくといふのが實際に近い。この混合から新しい形が出てくるであらう。形の生成は綜合の辯證法であるよりも混合の辯證法である。私のいふ構想力の論理は混合の辯證法として特徴附けられねばならぬであらう。混合は不定なものの結合であり、その不定なものの不定性の根據は虚無の存在である。あらゆるものは虚無においてあり、且つそれぞれ特殊的に虚無を抱いてゐるところから混合が考へられる。虚無は一般的な存在を有するのみでなく、それぞれにおいて特殊的な存在を有する。混合の辯證法は虚無からの形成でなければならぬ。カオスからコスモスへの生成を説いた古代人の哲學には深い眞理が含まれてゐる。重要なのはその意味をどこまでも主體的に把握することである。
[#改ページ]

    孤獨について

「この無限の空間の永遠の沈默は私を戰慄させる」(パスカル)。

 孤獨が恐しいのは、孤獨そのもののためでなく、むしろ孤獨の條件によつてである。恰も、死が恐しいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の條件によつてであるのと同じである。しかし孤獨の條件以外に孤獨そのものがあるのか。死の條件以外に死そのものがあるであらうか。その條件以外にその實體を捉へることのできぬもの、――死も、孤獨も、まことにかくの如きものであらうと思はれる。しかも、實體性のないものは實在性のないものといへるか、またいはねばならないのであるか。

 古代哲學は實體性のないところに實在性を考へることができなかつた。從つてそこでは、死も、そして孤獨も、恰も闇が光の缺乏と考へられたやうに、單に缺乏(ステレーシス)を意味するに過ぎなかつたであらう。しかるに近代人は條件に依つて思考する。條件に依つて思考することを教へたのは近代科學である。だから近代科學は死の恐怖や孤獨の恐怖の虚妄性を明かにしたのでなく、むしろその實在性を示したのである。

 孤獨といふのは獨居のことではない。獨居は孤獨の一つの條件に過ぎず、しかもその外的な條件である。むしろひとは孤獨を逃れるために獨居しさへするのである。隱遁者といふものはしばしばかやうな人である。

 孤獨は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤獨は「間」にあるものとして空間の如きものである。「眞空の恐怖」――それは物質のものでなくて人間のものである。

 孤獨は内に閉ぢこもることではない。孤獨を感じるとき、試みに、自分の手を伸して、じつと見詰めよ。孤獨の感じは急に迫つてくるであらう。

 孤獨を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社會の如きものであつたのである。東洋人に社會意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが對立的に考へられないためである。

 東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は晝の世界と夜の世界である。晝と夜との對立のないところが薄明である。薄明の淋しさほ晝の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。

 孤獨には美的な誘惑がある。孤獨には味ひがある。もし誰もが孤獨を好むとしたら、この味ひのためである。孤獨の美的な誘惑は女の子も知つてゐる。孤獨のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ。
 その一生が孤獨の倫理的意義の探求であつたといひ得るキェルケゴールでさへ、その美的な誘惑にしばしば負けてゐるのである。

 感情は主觀的で知性は客觀的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層眞理に近い。感情は多くの場合客觀的なもの、社會化されたものであり、知性こそ主觀的なもの、人格的なものである。眞に主觀的な感情は知性的である。孤獨は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。

 眞理と客觀性、從つて非人格性とを同一視する哲學的見解ほど有害なものはない。かやうな見解は眞理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。

 いかなる對象も私をして孤獨を超えさせることはできぬ。孤獨において私は對象の世界を全體として超えてゐるのである。
 孤獨であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤獨を知らない時である。

 物が眞に表現的なものとして我々に迫るのは孤獨においてである。そして我々が孤獨を超えることができるのはその呼び掛けに應へる自己の表現活動においてのほかない。アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めてをり、見られることがそれにとつて救濟であるといつたが、表現することは物を救ふことであり、物を救ふことによつて自己を救ふことである。かやうにして、孤獨は最も深い愛に根差してゐる。そこに孤獨の實在性がある。
[#改ページ]

    嫉妬について

 もし私に人間の性の善であることを疑はせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいつたやうに惡魔に最もふさはしい屬性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向つて働くのが一般であるから。

 どのやうな情念でも、天眞爛漫に現はれる場合、つねに或る美しさをもつてゐる。しかるに嫉妬には天眞爛漫といふことがない。愛と嫉妬とは、種々の點で似たところがあるが、先づこの一點で全く違つてゐる。即ち愛は純粹であり得るに反して、嫉妬はつねに陰險である。それは子供の嫉妬においてすらさうである。

 愛と嫉妬とはあらゆる情念のうち最も術策的である。それらは他の情念に比して遙かに持續的な性質のものであり、從つてそこに理智の術策が入つてくることができる。また逆に理智の術策によつてそれらの情念は持續性を増すのである。如何なる情念も愛と嫉妬とほど人間を苦しめない、なぜなら他の情念はそれほど持續的でないから。この苦しみの中からあらゆる術策が生れてくる。しかも愛は嫉妬の混入によつて術策的になることが如何に多いか。だから術策的な愛によつてのほか樂しまない者は、相手に嫉妬を起させるやうな手段を用ゐる。

 嫉妬は平生は「考へ」ない人間にも「考へ」させる。

 愛と嫉妬との強さは、それらが烈しく想像力を働かせることに基いてゐる。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに對して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるといふことも、それらが想像力を驅り立て、想像力に驅り立てられて動くところから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入してゐる何等かの愛に依つてである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに惡魔がゐないと、誰が知らうか。

 嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に對して起る。だがその差異が絶對的でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより高いものを目差してゐるやうに見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向つてゐるのである。この點、愛がその本性においてつねにより高いものに憧れるのと異つてゐる。
 かやうにして嫉妬は、愛と相反する性質のものとして、人間的な愛に何か補はねばならぬものがあるかの如く、絶えずその中に干渉してくるのである。

 同じ職業の者が眞の友達になることは違つた職業の者の間においてよりも遙かに困難である。

 嫉妬は性質的なものの上に働くのでなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは、嫉妬の對象とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに關してひとは嫉妬するのである。これに反して愛の對象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。

 嫉妬は心の奧深く燃えるのがつねであるにも拘らず、何等内面性を知らぬ。

 嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均化を求める傾向である。

 嫉妬は出歩いて、家を守らない。それは自分に留まらないで絶えず外へ出てゆく好奇心のひとつの大きな原因になつてゐる。嫉妬のまじらない無邪氣な好奇心といふものは如何に稀であるか。

 一つの情念は知性に依つてよりも他の情念に依つて一層よく制することができるといふのは、一般的な眞理である。英雄は嫉妬的でないといふ言葉がもしほんとであるとしたら、彼等においては功名心とか競爭心とかいふ他の情念が嫉妬よりも強く、そして重要なことは、一層持續的な力になつてゐるといふことである。

 功名心や競爭心はしばしば嫉妬と間違へられる。しかし兩者の差異は明瞭である。先づ功名心や競爭心は公共的な場所を知つてゐるに反し、嫉妬はそれを知らない。嫉妬はすべての公事を私事と解して考へる。嫉妬が功名心や競爭心に轉化されることは、その逆の場合よりも遙かに困難である。

 嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。

 もし無邪氣な心といふものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心といふのが何よりも適當であらう。

 自信がないことから嫉妬が起るといふのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りやうもないわけであるが。しかし嫉妬はその對象において自己が嫉妬してゐる當の點を避けて他の點に觸れるのがつねである。嫉妬は詐術的である。

 嫉妬心をなくするために、自信を持てといはれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによつて。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによつて自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事實からも理解されるであらう。
[#改ページ]

    成功について

 今日の倫理學の殆どすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功といふものである。しかもそれは相反する意味においてそのやうになつてゐるのである。即ち幸福はもはや現代的なものでない故に。そして成功はあまりに現代的なものである故に。
 古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功といふものは何處にも存しないやうに思ふ。彼等のモラルの中心は幸福であつたのに反して、現代人のそれは成功であるといつてよいであらう。成功するといふことが人々の主な問題となるやうになつたとき、幸福といふものはもはや人々の深い關心でなくなつた。

 成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の觀念が近代に特徴的なものであるのに似てゐるであらう。實は兩者の間に密接な關係があるのである。近代啓蒙主義の倫理における幸福論は幸福
前へ 次へ
全15ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング