發性はその精神性を現はしてゐる。怒が突發的なものであるといふことはその啓示的な深さを語るものでなければならぬ。しかるに憎みが何か深いもののやうに見えるとすれば、それは憎みが習慣的な永續性をもつてゐるためである。
怒ほど正確な判斷を亂すものはないといはれるのは正しいであらう。しかし怒る人間は怒を表はさないで憎んでゐる人間よりもつねに恕せらるべきである。
ひとは愛に種類があるといふ。愛は神の愛(アガペ)、理想に對する愛(プラトン的エロス)、そして肉體的な愛といふ三つの段階に區別されてゐる。さうであるなら、それに相應して怒にも、神の怒、名譽心からの怒、氣分的な怒といふ三つの種類を區別することができるであらう。怒に段階が考へられるといふことは怒の深さを示すものである。ところが憎みについては同樣の段階を區別し得るであらうか。怒の内面性が理解されねばならぬ。
愛と憎みとをつねに對立的に考へることは機械的に過ぎるといひ得るであらう。少くとも神の辯證法は愛と憎みの辯證法でなくて愛と怒の辯證法である。神は憎むことを知らず、怒ることを知つてゐる。神の怒を忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまつた。
我々の怒の多くは氣分的である。氣分的なものは生理的なものに結び附いてゐる。從つて怒を鎭めるには生理的な手段に訴へるのが宜い。一般に生理は道徳に深い關係がある。昔の人はそのことをよく知つてをり、知つてよく實行したが、今ではその智慧は次第に乏しくなつてゐる。生理學のない倫理學は、肉體をもたぬ人間と同樣、抽象的である。その生理學は一つの技術として體操でなければならない。體操は身體の運動に對する正しい判斷の支配であり、それによつて精神の無秩序も整へられることができる。情念の動くままにまかされようとしてゐる身體に對して適當な體操を心得てゐることは情念を支配するに肝要なことである。
怒を鎭める最上の手段は時であるといはれるであらう。怒はとりわけ突發的なものであるから。
神は時に慘めな人間を慰めるやうに命令した。しかし時は人間を救ふであらうか。時によつて慰められるということは人間のはかなさ一般に屬してゐる。時とは消滅性である。
我々の怒の多くは神經のうちにある。それだから神經を苛立たせる原因になるやうなこと、例へば、空腹とか睡眠不足とかいふことが避けられねばならぬ。すべて小さいことによつて生ずるものは小さいことによつて生じないやうにすることができる。しかし極めて小さいことによつてにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起すことが可能である。
社會と文化の現状は人間を甚だ神經質にしてゐる。そこで怒も常習的になり、常習的になることによつて怒は本來の性質を失はうとしてゐる。怒と焦躁とが絶えず混淆してゐる。同じ理由から、今日では怒と憎みとの區別も瞹昧になつてゐる。怒る人を見るとき、私はなんだか古風な人間に會つたやうに感じる。
怒は復讐心として永續することができる。復讐心は憎みの形を取つた怒である。しかし怒は永續する場合その純粹性を保つことが困難である。怒から發した復讐心も單なる憎みに轉じてしまふのが殆どつねである。
肉慾的な愛も永續する場合次第に淨化されて一層高次の愛に高まつてゆくことができる。そこに愛といふものの神祕がある。愛の道は上昇の道であり、そのことがヒューマニズムの觀念と一致し易い。すべてのヒューマニズムの根柢にはエロティシズムがあるといへるであらう。
しかるに怒においては永續することによつて一層高次の怒に高まるといふことがない。しかしそれだけ深く神の怒といふものの神祕が感じられるのである。怒にはただ下降の道があるだけである。そしてそれだけ怒の根源の深さを思はねばならないのである。
愛は統一であり、融合であり、連續である。怒は分離であり、獨立であり、非連續である。神の怒を考へることなしに神の愛と人間的な愛との區別を考へ得るであらうか。ユダヤの豫言者なしにキリストは考へ得るであらうか。舊約なしに新約は考へ得るであらうか。
神でさへ自己が獨立の人格であることを怒によつて示さねばならなかつた。
特に人間的といはれ得る怒は名譽心からの怒である。名譽心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、獨立の人格であることを示さうとするのである。そこに怒の倫理的意味が隱されてゐる。
今日、怒といふものが瞹昧になつたのは、この社會において名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になつたといふ事情に相應してゐる。それはまたこの社會において無性格な人間が多くなつたといふ事實を反映してゐる。怒る人間は少くとも性格的である。
ひとは輕蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名譽心は彼の怒が短氣であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は靜かで、しかも威嚴を具へてゐる。それは完成した性格のことである。
相手の怒を自分の心において避けようとして自分の優越を示さうとするのは愚である。その場合自分が優越を示さうとすればするほど相手は更に輕蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示さうなどとはしないであらう。
怒を避ける最上の手段は機智である。
怒にはどこか貴族主義的なところがある。善い意味においても、惡い意味においても。
孤獨の何であるかを知つてゐる者のみが眞に怒ることを知つてゐる。
アイロニイといふ一つの知的性質はギリシア人のいはゆるヒュブリス(驕り)に對應する。ギリシア人のヒュブリスは彼等の怒り易い性質を離れて存しなかつたであらう。名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になり、怒の意味が瞹昧になつた今日においては、たとひアイロニイは稀になつてゐないとしても、少くともその效用の大部分を失つた。
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人間の條件について
どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いてゐるやうに感じる。いつたい何の上にであらうか。虚無の上にといふのほかない。自己は虚無の中の一つの點である。この點は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなつても、自己がその中に浮き上つてゐる虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の條件である。けれどもこの條件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさへもが、海といふものを離れて考へられないやうに、それなしには人間が考へられぬものである。人生は泡沫の如しといふ思想は、その泡沫の條件としての波、そして海を考へない場合、間違つてゐる。しかしまた泡沫や波が海と一つのものであるやうに、人間もその條件であるところの虚無と一つのものである。生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのやうに異つてゐる。しかし虚無は人間の條件である。
人間の條件として他の無數のものが考へられるであらう。例へば、この室、この机、この書物、或ひはこの書物が與へる知識、またこの家の庭、全體の自然、或ひは家族、そして全體の社會……世界。このいくつかの言葉で表はされたものは更に無數の要素に分解することができる。それら無數の要素は互に關係してゐる。また人間といふものも、その身體も、その精神も、それらの要素と同じ秩序のものに限りなく分解することが可能である。そして一つの細胞にとつて他のすべての細胞は條件であり、一つの心象にとつて他のすべての心象は條件である。これらの條件は他のあらゆる條件と關係してゐる。かやうにどこまでも分解を進めてゆくならば、條件以外に何等か人間そのものを發見することは不可能であるやうに思はれる。私は自己が世界の要素と同じ要素に分解されてしまふのを見る。しかしながらそれにも拘らず私が世界と異る或るものとして存在することは確かである。人間と人間の條件とはどこまでも異つてゐる。このことは如何にして可能であらうか。
物が人間の條件であるといふのは、それが虚無の中において初めてそのやうな物として顯はれるといふことに依つてである。言ひ換へると、世界――それを無限に大きく考へるにせよ、無限に小さく考へるにせよ――が人間の條件であることにとつて虚無はそのアプリオリである。虚無といふ人間の根本的條件に制約されたものとして、それ自身虚無に歸し得るもの、いな、虚無であるものとして、世界の物は人間の條件である。かやうにして初めて、人間は世界と同じ要素に、それらの要素の關係に、限りなく分解され得るにしても、人間と世界との間に、人間と人間の條件との間に、どこまでも區別が存在し得るのである。虚無が人間の條件の條件でないならば、如何にして私の自己は世界の要素と根本的に區別される或るものであり得るであらうか。
虚無が人間の條件或ひは人間の條件であるものの條件であるところから、人生は形成であるといふことが從つてくる。自己は形成力であり、人間は形成されたものであるといふのみではない、世界も形成されたものとして初めて人間的生命にとつて現實的に環境の意味をもつことができるのである。生命はみづから形として外に形を作り、物に形を與へることによつて自己に形を與へる。かやうな形成は人間の條件が虚無であることによつて可能である。
世界は要素に分解され、人間もこの要素的世界のうちへ分解され、そして要素と要素との間には關係が認められ、要素そのものも關係に分解されてしまふことができるであらう。この關係はいくつかの法則において定式化することができるであらう。しかしかやうな世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、單なる關係でも、關係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかやうな世界においては形といふものは考へられないからである。形成は何處か他のところから、即ち虚無から考へられねばならぬ。形成はつねに虚無からの形成である。形の成立も、形と形との關係も、形から形への變化もただ虚無を根柢として理解することができる。そこに形といふものの本質的な特徴がある。
古代は實體概念によつて思考し、近代は關係概念或ひは機能概念(函數概念)によつて思考した。新しい思考は形の思考でなければならぬ。形は單なる實體でなく、單なる關係乃至機能でもない。形はいはば兩者の綜合である。關係概念と實體概念とが一つであり、實體概念と機能概念とが一つであるところに形が考へられる。
以前の人間は限定された世界のうちに生活してゐた。その住む地域は端から端まで見通しのできるものであつた。その用ゐる道具は何處の何某が作つたものであり、その技倆はどれほどのものであるかが分つてゐた。また彼が得る報道や知識にしても、何處の何某から出たものであり、その人がどれほど信用のできる男であるかが知られてゐた。このやうに彼の生活條件、彼の環境が限定されたものであつたところから、從つて形の見えるものであつたところから、人間自身も、その精神においても、その表情においても、その風貌においても、はつきりした形のあるものであつた。つまり以前の人間には性格があつた。
しかるに今日の人間の條件は異つてゐる。現代人は無限定な世界に住んでゐる。私は私の使つてゐる道具が何處の何某の作つたものであるかを知らないし、私が據り所にしてゐる報道や知識も何處の何某から出たものであるかを知らない。すべてがアノニム(無名)のものであるといふのみでない。すべてがアモルフ(無定形)のものである。かやうな生活條件のうちに生きるものとして現代人自身も無名な、無定形なものとなり、無性格なものとなつてゐる。
ところで現代人の世界がかやうに無限定なものであるのは、實は、それが最も限定された結果として生じたことである。交通の發達によつて世界の隅々まで互に關係附けられてゐる。私は見えない無數のものに繋がれてゐる。孤立したものは無數の關係に入ることによつて極めてよく限
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